講演記録

第二回 Alternative Mathematics 談話会 2005.6.3

数学における錬金術 ― あるひとつの問題提起
武田好史


奈良女子大の武田といいます.学生時代から,ずっと数学だけをやってきたのですが,数年前にあることがきっかけで,数学の根本に関わることに興味を持つようになりました.といっても興味を持つだけでは,人に向けてまとまったお話することはなかなか難しいのですが,いくつかウィットゲンシュタインの本や関連書をあちこちと拾い読みしている中で,(ちょうど一年ぐらい前だったと思うのですが,)後でも述べますウィットゲンシュタインの解説書を見つけまして,そこにある解説を利用すれば,私が考えている事(問題提起ですが…)への導入になるのではないか考えました.そのことについてお話したいと思います.

 ということで今日の中心テーマはウィトゲンシュタイン全集の7巻の「数学の基礎」の第四部にある次の言葉「錬金術との比較が心に浮かぶ.人は,数学における錬金術について語ることができよう.… ある数学的概念における神秘的なものは,直ちに誤った見方,誤謬概念として解されないで,決して軽蔑されてはならないもの,おそらくはむしろ尊敬されるべきものとしてさえ解されるということが,私の語っている現象の典型的なものである.」です.ここに「人は,数学における錬金術について語ることができよう」とあるわけですから語ってみましょうということです.

 もちろん今日は問題提起することが目的なので,最初から論点を絞ってしまうと問題提起にならないのですが,皆さんの意識があまりにばらばらのままでは議論にならないと思いますので,まず,(ここにいらっしゃる皆さんには常識的なことでしょうが,)“背理法”に対する数学の立場を一緒に思い出してみたいと思います.

 こんなことを考えてみてください.「ある博物館で,非常に高価な壷を保管することになった.壷を特別な保管室に置き,さらに警備員一名をその保管室に配置した.ある朝,博物館の責任者が壷を確認に来たところ,警備員が眠り込んでおり,さらに,壷が割れているのが発見された.警備員を問いただしたところ,『もちろん自分は壷を割っていないし,また警備中には適宜仮眠を取ってよいという規則であった』と答えたとする.」というお話です.それで考えたいことは「このとき,警備員が壷を割った犯人であると断定できるか?」ということです.

 まず,警備員が犯人であると断定してよいのはどんなときかといいますと,たとえば,最初警備員は壷を割っていないといっていたのですが,その後警備員が自白し,さらに犯行を裏付ける証拠,たとえば,「この棒で叩き割りました」とかいう証拠があるときとか,あるいは,保管室には監視カメラが備え付けられており,警備員が壷を割る瞬間の映像がそこに記録として残っていたときとかです.つまり,警備員が犯人であることを示す直接の証拠があるときは警備員が犯人であるというふうに断定することができるわけです.

 次に警備員が無実と断定できるのはどんなときかといいますと,たとえば,壷は保管室の中のさらに特別な保管庫の中に置かれていて,警備員一人ではそれを開けることはおろか,動かすことも揺らすことも到底できないとき,というふうに警備員が壷を割ることが原理的に不可能なときは,無実とすることに対して誰にも異論はないと思います.つまり,「警備員が犯人であるとすると,話が合わないから警備員は犯人ではない」とするわけです.

 では今見たような直接的な証拠が何もないときを考えてみると… これについてはいろいろなことが考えられます.つまり,「警備員が犯人であると断定していいか?」という問いに対して 「警備員が寝ている間に,誰かが侵入してきて壷を割ったのかもしれない.」という反論を持ち出すことができます.これに対して,捜査員が保管室の扉を調べてみた結果,保管室の扉は離れたところにある管理室からの遠隔操作によってのみ開閉ができるようになっていて,もちろん夜の間は一度も開閉していないことがわかったとします.その事実から,警備員は犯人であると断定していいか?

 それに対して,またさらに次のようなことも考えられます.「誰かが,壁とか床を破って侵入してきたのかもしれない.」これに関しては,例えば保管室の床とか壁とかあらゆるところを調べてみたとします.しかし,だれかが侵入して来たような形跡がどこにもない.だから,壷のそばにいたのはやはり警備員だけと考えられる.ということで,警備員は犯人であると断定できるのか?

 それに対しても,次のような反論も考えられます.つまり,「地震の揺れで,壷が倒れて割れた.」このような反論に対しても,また次のように考えられる.即ち地震があったかどうかは,気象台の記録を見れば分かるし,保管室には問題の警備員一人だったとしても,博物館の管理室には他の職員が何人かいて,その職員達は地震にならないような局所的な揺れも一切感じなかったとします.だから,揺れで壷が倒れて割れたりするようなことはないということで,警備員が犯人であると断定できるのか?

 これに対してもさらに次のような反論も考えられるわけです.「少し離れたところにいる管理室ではそれほど揺れは感じなかったけれども,何らかの事情で保管室のところに微小な振動があり,壷を置いていた台がそれに共振して,グラグラと大きな揺れになったために,壷が倒れて割れてしまったのかもしれない.」これに対しても例えば,壷を置いていた台というのは特殊な免震構造の台であったとか…

 この後も作り話はいくらでも作っていけますが,そうするときりがありませんので,この辺でおしまいにさせてもらいます.何が言いたいのかと言いますと,このように考えていくと延々と議論が続いていってしまうということです.今日最初に問題にしたいのは背理法です.まず今見た作り話を考えてもらったらいいと思うのですが,問題点は直接的な証拠がないときに上のような考え方を積み重ねていくことによって,警備員が犯人であると断定できるのかということです.

 警備員は非常に怪しいといえば怪しいわけで,また「警備員が割ったのではなかったら,だれが割ったのか」ということになりますし,非常に怪しいというふうにみんな考えます.つまり,警備員が犯人でなかったら,どうして割れたのかということになり,そのへんがわれわれからは理解できないということです.がしかし,今のような議論を続けていても終わりがないわけで,日常的なわれわれの感覚からいきますと,「警備員が犯人であると断定はできない」ということになります.

 先ほどのようないろいろなやりとり,「じゃあこういうことなのか」,「いやそれはこういうことでそんなことはない」,「じゃあこういうことか」といろいろ考えていって,最終的にそのような方向で判断できる,つまり警備員が犯人であると断定できる状態があるとすればどのような状態かと言いますと,「ありとあらゆる可能性,本当にすべての可能性を検討し尽くして,それでも警備員が割ったとしか考えられない場合」ということなのです.もちろんわれわれは(神でない)人間ですし,本当に真の意味でありとあらゆる可能性を検討し尽くすということ,そのようなことはできません.今見たのはたとえ話ですが,日常の場合の考え方です.

 今度は数学の話を考えてみます.数学の命題で「2次方程式は複素数の中に解を持つ」という数学の命題がありますが,「この命題は正しい」というようにわれわれがなぜ認識しているのかと言いますと,実際に2次方程式については解の公式がありまして,問題になっている方程式の係数を代入すれば,具体的に解を構成することができます.公式は解を直接構成する手段なのです.したがって解があるということになる.これを先ほどの作り話,壷の話で言いますと,「犯行を示す直接的な証拠がある.だから警備員が犯人だ.」という考え方と対応しているわけです.

 次に,2の平方根は無理数であるとします.これも一般に正しいと言われているのですけれども,この証明は普通どのように行われるのかと言いますと,2の平方根がもし有理数だったらと仮定する.有理数ならば分数で書けるはず.分数ならば既約分数ということになり.この辺はちょっと省略しますけれども,そのあと2乗すると2になるということを利用して変形していくと,分母分子が2で割れることが分かりまして,約分できることが分かる.先ほど既約分数であるといった数が今度は約分できるということになったということで,ゆえに2の平方根は有理数ではない.このような証明の仕方です.これはもちろん背理法です.

 当たり前のことなのですけれども,今の背理法の要点は何かと言いますと,「有理数である」と仮定すると矛盾が起こる.したがって「有理数である」は成り立たないということになるのです.歴史的には数学では有理数でない数を無理数と呼ぶようになったということです.(有理数でない“数らしきもの”が発見されたので,つまりそれは理解できないものということだったと思うのですが,無理数というようになった.それが無理数の定義ですから,有理数であるが成り立たないということは,すなわち無理数という結論に達します.) これは先ほどの壷の話から言いますと,「警備員が犯人であるとすると矛盾が起こるから犯人でない.」という考え方と同じような考え方をしています.

 そして,有名な,(これは背理法に関して必ずこの問題は出てくると思うのですけれども,)「多項式でできた方程式は複素数の中に解を持つ」です.ガウスの代数学の基本定理です.この命題を考えてみます.もちろんこれは今の数学では正しい命題ということになっているものです.いろいろな証明方法がありますが,ある程度数学の知識が身についた人向けに一番簡単に証明できる方法というので,これをよくみかけます.まず,多項式が複素数の中に解を持たないと仮定する.解を持たないと仮定するとそれはゼロにならないということですから,それを分母に持って来て,多項式分の1というのを考えるとそれは複素数上の関数になります.多項式分の1で分母がゼロにならなかったら正則関数になります.そしてゼロから離れて無限大のところに近づいていくと,分母の絶対値が無限大になりますから,無限大のところではだんだんゼロに近づいてきて,有界関数になります.そしてリュービルの定理というのがありまして,これは定数関数ということになります.そうすると多項式分の1が定数関数というのはおかしい.これは矛盾している.したがって多項式は複素数の中に解があるというわけです.

 これも背理法です.そのときの要点は何かというと,「解がないと仮定して話を進めると矛盾が起き,したがって解がある」というような説明の仕方,(実際,僕も授業でやるときはこのような説明をするのですけれども,) これが現在の形式主義数学の特徴的な部分であるわけです.

 しかし,本来背理法というのはどのようなことかと言いますと,仮定をおいて話を進めていくと矛盾する.したがって最初においた仮定は成り立たない.そのように考えるのが背理法です.だから最初のほうの背理法の適用例「2の平方根は無理数」を証明するときは,有理数であると仮定すると矛盾する.だから「『有理数である』ということは成り立たない.」先ほども言いましたけれども,有理数にならないような“数”のことを無理数と定義するのが,無理数の本来の定義ですので,それは無理数という結論になるわけです.

 それと全く同じ推論をしたとすると,今の場合どのようなことになるのかと言いますと,解がないと仮定したら矛盾が起こる.だから「解がないは成り立たない」という結論にしなければいけないはずなのです.しかし,先ほども言いましたが,「解がないと仮定すると矛盾する,だから解がある」というふうに,普通はこのような説明の仕方をする.つまりどのようなことかというと,「『解がない』は成り立たない」というのと,「解がある」というのは同じだと決めてかかっているというわけです.

 もう少し深く考えてみますと,例えば先ほどから何回も言っていますが,有理数と無理数というのはどのような関係にあるのかと言いますと,有理数でない“数”を無理数とするというのが無理数の本来の定義です.ですから,当然片方がなりたったとしたら反対は成り立たないし,また両方同時に成り立つようなことはないし,どちらでもないとか,そのような中途半端な状態は何もない.非常にはっきりしているということで,「有理数であるは成り立たない」ということと,「無理数である」ということ同じこととしている.これは無理数という言葉の定義から言って当たり前のことです.

 でも,多項式の解について,なぜあのようなことを考察し始めたのかと言いますと,一般の多項式で出てきた方程式の解の場合というのは,解があるのかないのか分からないから,解があるということをはっきりさせようということでガウスは証明を始めたのだと思います.だから出発点,つまり証明を始めたときのわれわれの理解では,解があるのかないのかはっきりしていないわけです.解があるのかどうなのか分からない.解の有無に関して,「必ずどちらか一方が成り立ち,かつ同時には成り立たない」そのような状態にあるのかどうなのか全然分からない.分からないから考え始めている.

 その時点でのわれわれの立場から言いますと,「一体どのようになっているのか把握もできないし,ひょっとしたら想像もつかないような状態があるのかもしれない.」そのような中で証明を始めているわけです.先の見通しが全く分からないまま証明を始めているわけです.それなのに,「解がないは成り立たない」と出た瞬間,それは「解がある」と結論づけているというのは,最初の壷と警備員の例で言いますと,「お前が犯人でないとすると,われわれには理解できない.だから,おまえが犯人だ」と決めてしまっていることになります.こんな無茶苦茶な論法を使ってしまっているわけです.

 先ほども言いましたけれども,神様のようにありとあらゆる可能性をすべて認識できるような人がいるのであれば,話は違ってくるかもしれません.神様から見て,「この警備員が犯人でないというような仮定をおくと,おかしいことになる」というのであれば,警備員は犯人とい言うことになるでしょう.また,神様が「多項式でできた方程式に関しては,解があるかないか,必ずどちらかが成り立って,両方同時に成り立つことはあり得ない」というように思っているのであれば,その場合は「解がないは成り立たないということ,イコール解がある」といってもよい.しかし当たり前ですが,裁判官や数学者は神ではない.

 20世紀初頭,直観主義数学者と形式主義数学者でいろいろとやりあいがあったわけで,そのとき,もちろんいろいろなことに関して議論されたのだと思いますけれども,その中で問題になったことの一つが,上に書いてあるようなことです.少し乱暴なまとめ方なのですけれども,次のようにそれぞれの考え方のまとめでも,それほど外れてはいないと思います.

 直観主義数学者の考え方として,「数学者は人間であり,神様ではない.神でない数学者がよく分かっていない(と言いますか,自分が分かっているのか分かっていないのかわからない)のに,『解がないは成り立たないということと,解があるというのは同じである』と結論づけてはいけない.」これが直観主義の考え方(の一つ)です.

 それに対して形式主義というのはどのような考え方かと言いますと,(このようにまとめて,そんなにまとはずれではないと思うのですが,)「(直観主義者が言うとおり,人間は全てを理解できないといえば,それはもちろんその通り.そこで,)現実の世界との関係がなくなってしまってもいいから,『命題の否定の否定が,これすなわち命題の肯定になる』そのような理想的数学の世界を,公理系でもって作り上げてしまえばいいのではないか.」という立場です.そのような「理想的世界の中で数学をやっている」のですという,ある意味開き直りの立場です.そのような考え方でやれば,「否定の否定は肯定になる」とか,「解がないと仮定すると矛盾するから,解がある」というような言い方をしても大丈夫ではないかということになるわけです.

 その後,どのようになったのかと言いますと,(ここにいる皆さんはご存じだと思うのですが,)いろいろなことがあったらしいのですが,結局,形式主義が現在の主流になっている.でもその後,ゲーデルのいろいろな研究で,今言ったような理想的な数学の世界を構成すること自体,無理なことというのが明らかになっている.では,ゲーデルの研究の結果が一般に知られるようになったあと,世界中の数学者が形式主義数学をやめて,直観主義に移ったのかというと,どうもそうではない.直観主義数学者というのはその後もあまりいない.数学者たちのなかには,「わたしは直観主義です」と旗を掲げている人というのはあまりいない.中にはいるけれども,それはとってもめずらしい.僕自身も普通の数学の論文を書くときに,直観主義でなく形式主義の書き方をします.上で出たような背理法を使って書いています.

 そのような具合で,(僕自身も含めてですけれども,)数学者は直観主義を取っているかというとそうではない.その理由はもちろん人によって違うとは思うのですけれども,研究上の制約,つまり背理法を使えないとなると,いろいろな不便が生じるということで,直観主義に対しては二の足を踏んでしまうと言いますか,できれば避けたいという感じになってしまう.

 形式主義というのが表に出ていると,数学者は,(はっきり言いますと,ちょっとおかしい感じの)無理なことを理想として掲げているわけです.それで,「これからも数学者は形式主義の立場を取るべきであるのか」ということが問題になるのです.このような書き方をしたことで,これが問題提起と勘違いされると困るのですが,これはまだ今日の問題提起ではありません.

【辻下】普通はプラトニズムということで研究しますね.形式主義と言いますと,場合によっては直観主義も含めて,もっと緩い立場をいうこともありますね.ここではプラトニズム的な立場ですね.有限の世界と同じように数学の世界がはっきりしている.

【武田】これから話そうと思っていることなのですが…

【辻下】そうでしたね,ごめんなさい.

〈タケダ〉 これから今のようなことに入っていきたいと思います.つまり,プラトニズムの考え方に入っていきたいのですが,この節と次の節には種本がありまして… 奥雅博さんという人(ウィトゲンシュタインについての専門家)が書いている本で『ウィトゲンシュタインの夢―言語・ゲーム・形式』という,勁草書房から出ている本をもとに,話を進めていきます.それをもとにしているのですが,かなり作り直していまして,もし僕がこれから言うようなことを当の奥雅博さんが聞いたら,「わたしはそんなことは言っていない」と,しかられるかもしれないのですけれども… あるいは,「そういうところに使われては困る」ということを,本人はおっしゃるかもしれないですが,哲学者である奥氏と,数学者であるわたしとは,もともとの目標にしていることが違うということで,つまり,目的意識が違うということで許してもらいたい.

 それでこの問題,(これもよく話しに出てくる問題ですが,)「円周率3.141592653… この小数展開の中に,00…0と0が1万回連続して現れる」という命題を考えてみたい.つまりその命題の真偽を問う問題があったとします.同じ意味なのですけれども,別の表現というのを考えてみると,「次の集合Xは空集合であるかを判定せよ」というような問題も考えられる.つまり,「円周率の小数点以下第n位から第n+9,999位までがすべてゼロになっている」このような自然数nを要素として持つ集合Xを考えて,その集合が空集合であるかどうかを判定していく.

 今,問題を読み上げてみたのですが,今の問題を見て,「答えは知らないのだけれども,今の問題は,数学の問題である」つまり,数学者が実際に研究対象とするかどうかは別にして,これは数学の問題といえ,かつ答えは知らないのだけれども,「正しいか間違っているか,もうすでに定まっている」というように自然に考える人というのは,「プラトニズムに完全に“洗脳”されてしまっている」と言えると思います.

 別にそれが悪いといいたいわけではない.今,見た問題が数学の問題だと感じる人が心の中にどのようなことを考えているのか想像してみますと,「円周率の小数展開というのは,(自分は知らないけれども,)すでにもう決定されているはず」とか,今のところは知らないというので,「あとはそこを計算するだけ」とか,「これから先,われわれが“発見する”という行為だけが残されている」と感じたり,集合のほうの言い方で言いますと,「上で定義した集合Xというのは空集合になるかならないかは分からないのだけれども,(素朴集合論,公理的集合論,どちらでもいいのですけれども)数学でいうところの集合になっているということは間違いない」と考えるわけです.

 「それはどのようなことですか?」と,さらにこちらから問いかけてみると,多分その人はこのように答えると思うのですが,「大昔の厳密性に欠ける数学ならともかく,現代数学では円周率には厳密な定義があり,小数展開というのも厳密に定義されている.」 このように考える人に対して,もしだれかが「ここはあいまいじゃないのですか」と指摘しても,曖昧さが生じる原因の部分をもう一度再検討して,それをはっきりさせ,「必要があれば厳密になるように定義を修正すれば,ちゃんとした問題になるはずだ」と言うわけです.あるいはむしろ指摘されてほうっておくほうが,数学者のとるべき態度ではなくて,「あいまいさを指摘されたら修正しなければいけない.それが数学というものだ」という考えです.

 同じように,数学以外の自然科学者の人がどのように考えるのかを想像してみると,「小数展開というのを数学者たちが厳密に現在どこまで計算しているか,それは分からないけれども,決定されているべきものである.それがもし厳密に確定していないというのならば,また数学者が(いつものように)変な定義をしているのではないか」と,そのような考え方をする.それは“人間である数学者の怠慢”であって,自然科学の研究者の立場で言いますと,「円周率の小数展開というのは当然決定されているはず.そのようなものだ」と考えている.

 そこで,その人たちに問いかけてみたいのですが,「小数展開はすでに決定されていると仮定したとしても,それをどのように確認するのですか? 確認する方法などあるのでしょうか?」でもこの問いには答えられる人はいないと思うのです.何がいいたいのかと言いますと,「小数展開はすでに決定されていると,ただ単に“強く信じ込んでいるだけ”ではないのか?」ということです.

 続けて次のようなことを考えてみましょう.「無理数の小数展開というもの,そもそもそれは一体何なのか?」(わたし自身昔はこのようなことを考えたこともなかったのですけれども,)このことを改めて考えてみることは有意義なことだと思います.どうゆうことかと言いますと,無限小数というものを考えたときに,つまり,小数点以下第1位,第2位,第3位というふうに,小数点以下を考えるときには,小数点以下第何位というときの何位には,自然数を使っているわけなのです.そのときには無限に続く自然数というのが基盤であり,それがあやしいものだというように“全く”疑ったりしていない.

 でも,例えば形式主義数学の立場で考えると,自然数の全体の集合というのは,「無限集合の存在の公理」というので認めているわけです.無限集合の存在の公理というのは,ツェルメロ―フレンケルもゲーデル―ベルナイスも,どちらも同じような形ですが,これでもって無条件に認めている.それも枠組みだけを無条件で認めている.だからこれでは,自然数全体の集合という枠組みができているだけで,実際にこれから自然数を作ろうとすると,最初に空集合が入っていることがわかっていて,その空集合の次の“1”という自然数を作ってみて,あとは同様に,この矢印の「ならば」の部分を,繰り返し使用することによって,無限個の自然数を構成的に作っていくわけです.そこは無条件で認めているわけですね.公理ですから,数学ではこれが正しいかどうかというのは考えないという形式主義の立場です.

 これに関して,ウィトゲンシュタインは次のようなことを述べています.(数学に対しては手厳しいと思うのですけれども,)「有理数は数えることが不可能であるから,数えきることはできない.しかし,有理数を用いて数えることはできる.」数学科の授業科目で集合論を習うと,濃度の概念を上手に使って,有理数を用いて数えることになる.そうして「数えるということができる」ということで,「数学者は,それでもって無限集合を完全に有限と同じような感じで,正確に取り扱えることになったと思い込んでいる.」多分そのような意味だと思います.ウィトゲンシュタインにしてみれば,数学には他にも怪しいところがあるのしょうけれども,そんな中の一部を成しているというように言っているわけです.

 このような言い方をされると,数学者は快く思わないですでしょう.(わたしも数学者とまだ自分では思っています.)ですから,ウィトゲンシュタインのような激しい言葉遣いではなくて,もう少し穏やかな言い回しで,次のようなことを考えてみるというのが,われわれ数学者にも必要ではないかとおもいます.つまり,「無理数である円周率は無限小数と言われているが,そもそも無限小数とは何なのか.」(これも今日の問題提起ではありません.)

 そして,「数学における錬金術」今日のテーマです.ここでさらに意図的に論点をどんどん絞っていきたいと思いますので,次のようなことを考えたいと思います.ウィトゲンシュタインの本の中に出てくるものですけれども,「ある詩人のある詩の中に登場する英雄について,その英雄に妹がいるかいないか,いずれかである」.このような問題です.もちろん,その詩の中には英雄の妹に関する言及はどこにもなく,またその詩を作った詩人本人も,英雄の妹に関してはまだ何も決めていないとします.

 この問題を見たときに,答えを知らないけれども,先ほどの円周率の小数展開と同じ様に,「事実としては,妹がいるかいないかのいずれかである.」とそこまで強く主張する数学者も自然科学者もいないと思います.(もしかしたらカチコチのプラトニストの中にはそういう人がいるかもしれないですけれども,あまりいない.)多くの人の考え方を想像してみますと,このようなことかなと思います.つまり「詩の中で英雄の妹に関して言及がなく,当の詩人本人がまだどうとも決めていない.決めていないのであれば,詩の中に現れる英雄の妹の有無,そのようなものは決定していないし,考えることに意味がない」と思ってしまうわけです.

 ここで先ほどの円周率の小数展開を思い出してもらったらいいのですが,円周率は現在の数学でも「円周の長さ÷直径」これが円周率の定義.見て分かるとおり,小数展開うんぬんということは一言も出てきません.またそれに,コンピューターの性能のデモンストレーションとかで,円周率の小数展開を計算している人もたくさんいると思うのですが,そのような中でゼロが異常なほど連続して現れたという話は聞いたことがない.ということで,状況は先ほどの英雄の妹と全く同じなわけです.でも,われわれというのは,円周率の小数展開に関する先ほどの問題を見たときに,「数学の問題だ」と,つまり「数学的に答えが決まるべきである」と考えてしまう.先ほども言いましたけれども,もしあいまいな点があるのだったら,今の数学に不備があるというので,「全数学者が一丸となって,もう一度定義をやり直さなければいけない」と考えます.

 同じような考え方を英雄の妹のほうに当てはめてみました.(読んでみると笑ってしまうのですけれども…) 「詩の英雄に妹がいるかいないかは数学の問題である.数学的に答えが決まるはず.もし英雄に妹がいるかいないかが,数学の問題としてあいまいな点があるとすると,今の数学に不備があることになって,数学者が一丸となって,数学を完全なものに再構築しなければならない.」このように考える人はいないと思います.(もちろんわたしもそのように考えない.)先ほども言いましたが,読んでみるとどうしてもこっけいな文章に思えてしまう.しかし,円周率の小数展開の中にゼロが現れるかどうかは,詩の英雄に妹がいるかどうかというのと,状況としては全く同じわけなのです.でも違うように感じてしまう.

 かなり今日のテーマに近づいてきたので,ここで今までの話をもう一度,整理してみますと,数学者というのは,「数学の問題らしきもの」を見たときにこのように考えてしまう.今日,出てきた例で言いますと,「多項式でできた方程式には解があるのかないのか,どちらかに必ず決定しているに違いない.」それとか,「円周率の小数展開も,知らないけれども決定されているはず」,このように感じてしまっている.その中に,もしあいまいさを指摘されたら,「それはですね… 今までの定義の仕方がまずかったので… このように修正します」と後出しをするというような覚悟もできている.そのように後出ししても,それが数学の正しいあり方であるというように開き直ってしまったりもするのです.

 ウィトゲンシュタインは次のようなことを述べています.同じ第4部の中に出てくることなのですけれども,「問いは決定可能となるときに,その身分を変えてしまう.」それはどのようなことかと言いますと,「以前そこになかった連関が作られてしまう.」この(《当日の原稿の中の引用文の中にある》)“…”というところは,少し別の言葉が入っているので省略しています.それから,「いかに奇妙に聞こえようと無理数をさらに展開するということは,数学をさらに展開することである.」それでまたちょっと途中に言葉がありまして,「決定根拠はすでにそこにあるように見えるが,まず発明されなければならない.」“…”のところは今日わたしは省略しているのですけれども,もしかしたらその省略したほうがメインで,こちらの引用したほうが裏ウィトゲンシュタインになっているのかもしれない.わたしはウィトゲンシュタインについての専門家ではありませんし,もしかしたら完全な勘違いしているのかもしれないのですけれども,ここで次のような考え方をしてみたのです.

 どのようなことかと言いますと,「円周率の展開の中にゼロが1万回続けて現われるという命題が成り立つか」と聞かれたときに,それをそのままに数学者はとらえないで,「数学的に考えて,円周率の小数展開の中にゼロが1万回続けて現れるという,その命題は数学の必然であるか」ととらえている.この“数学の必然”という言葉が何なのかということは,今ここで細かいことを言っても意味がないので大まかなことを言いますと,先ほども言いましたとおり,たとえば「小数展開が曖昧ではないかと言われたときには,修正する」という含みが少し入っている.(それだけかと言われると困るのですが…) 要するに,「数学者は問われた命題を,それそのものとは違う意味に解釈してしまっている」のではないかということです.

 同じように否定命題を問われたときにどのようになっているかと考えてみると,命題の否定つまり,「円周率の小数展開の中に,ゼロが1万回という数字の並びが現れない」という,これが否定命題ですが,それが成り立つかと聞かれたときに,数学者はどのような判断するのかというと,「ゼロが1万回という数字の並びが現れないという命題は,数学の必然であるか」という解釈をし,そのように受け取ってしまう.したがってこの場合,排中律を考えるとどのようになるのかと言いますと,「円周率の小数展開の中に,ゼロが1万回という数字の並びが現れるは数学の必然であるか,またはゼロが1万回と数字の並びが現れないは数学の必然であるか」これが排中律であると,数学者は認識します.しかし,これは考えてみたらおかしいわけです.なぜなら,排中律は何かと言いますと,当然のことながら「ゼロが1万回という数字の並びが現れるか,または数字の並びが現れない」ということです.この青色(《当日の原稿の文字の色》)の部分が違うわけです.

 少しまとめてみたいと思います.記号を使ってまとめてみますと,命題Pというのが問題として数学者に問われたとします.命題Pが問題として聞かれたということは,真偽を断定した形で提起されるわけではありませんから,排中律の形があるか,もしくは潜んでいる.あるいは(これも,実は“今日のテーマ”の一つなのですけれども,)数学者は問題として「命題Pが成り立つか」と聞かれたときに,「数学者は,PであるかPの否定であるという排中律への連関を勝手に作り上げてしまう」というような言い方も可能だと思います.つまりいずれにせよ,排中律の形を数学者は連想してしまうわけで,そのときに数学者はどのように考えるのかというと,「排中律これこれが成り立つのは数学の必然である」と考えてしまうわけです.ここで,何をもって「数学の問題」と判断するのかということも,もちろん議論になるわけですが,そこはクリアしたとして「数学の問題である」と判断したときに,数学者はどのように命題Pに関しての物事を最初にとらえるのかと言いますと,今見たように「Pに関する排中律『PであるかPでないかのどちらか』これは数学の必然である」,つまり,「この排中律は数学の必然である」ととらえてしまう.

 このように問われた問題を数学の問題だと一度でも認識してしまうと,数学者は次に何を考えるのかと言いますと,さらに,今認識した上の表現の命題を細かく見ていくことで,「命題Pは数学の必然」というように考え,それと同じように「命題Pの否定は数学の必然」だと,このようにとらえてしまうわけです.これはどのようなことなのかと言いますと,(つまり,Pを問われたときに数学者は何を感じてしまうのかと言いますと,)「命題Pは数学の必然であるか,または命題Pの否定は数学の必然である.」ということを排中律として数学者はとらえてしまうということです.でも本来のところに戻って考えてみると,排中律というのは「PまたはPの否定」ということ.あるいは,あえて言うなら,(これも排中律と言ってもいいと思うのですが,)「命題Pは数学の必然であるか,または数学の必然ではない.」これも排中律です.つまり,ここで排中律というのはこの二つということですので,上で言いました数学者がとらえる「命題Pは数学の必然であるか,または命題Pの否定は数学の必然である.」これを排中律と認識している数学者の考えは明らかに誤謬なのです.

 記号を用いて書けば,今のどこがどのように誤謬だと言っているのか,分かりやすいかと思いますのでもう少し考えてみますと,「これこれは数学の必然である」という部分を,“□”であらわしてやる.すると上の議論がどのようなことになったのかというと,「P∨¬P」,これは排中律です.これを見たときに,(数学者はそれぞれその人の数学の基準でやっていらっしゃると思いますが,) これは数学の問題であると判断したときに,数学者はどのように認識しているのかと言いますと,「□(P∨¬P)」と認識する.

 このようにひとたび認識してしまうと,さらにそれぞれの部分を細かく認識したときに,次のようなことととらえてしまう.「(□P)∨(□(¬P))」というように,数学者はとらえてしまう.これを排中律だと思ってしまうのですが,正しい排中律はと言いますと,何も余計なことはない「P∨¬P」か,「(□P)∨(¬(□P))」かです.つまり,排中律というのは,同じものふたつで,片方の前に否定の記号がついて,それを“∨”でつなぐというのが排中律なのですが,数学者が排中律と認識しているものはと言いますと…違うところに否定が入っています.だからこれは排中律でない.排中律でないものを排中律としている.これはどういうことかと言いますと,数学者というのは何もない元の形「P∨¬P」,これを見た瞬間に,(これを数学の問題だと認識した瞬間に,)そこからこのようなものを勝手に作り出してしまう.そして排中律でないものを排中律というように認識している.

 これはこのように言えるのではないかと思うのですが,無意味なトートロージー(トートロージーというのは,当然正しく常に真実ですが,それは大体無意味なものです.それ)から,数学者はそれを数学の問題だと判断して,そしてどのようなことになるのかというと,“数学的に”意義のあるような,「Pは数学の必然であるか,またはPの否定が数学の必然である」というようなものを勝手に作り出してしまう.これはある意味で,「無味乾燥なものから,数学の問題としての“数学的生命”を吹き込まれた,高貴な貴金属が生み出される」というようにも考えられる.これは確かに「数学における錬金術」と呼ぶのにふさわしいのではないでしょうか.

 ここからが今日の問題提起です.今の話を注意深く聞いていただいた方に対してということになります.話の展開の中で,上の「これが数学の錬金術というのにふさわしいのではないか」と言ったところで,要になっている部分は何かといいますと,“□”で表してきたもの,つまり「これこれは数学の必然である」の部分になるのです.これがあるから数学における錬金術が生じてくるというので,「この部分がこの錬金術における“賢者の石”である.」このように考えた人がいらしたとします.あるいは,今,わたしが言った話を聞いて「なるほど,うまく言うな」と,理解が深まったというように感じている方がおられるとすると,そのような人を,わたしはこう考えます,「完全にプラトニズムに洗脳されているのではないか」と.

 今の上のような考え方をしているということはどのようなことかと言いますと,「記号や概念のようなものを用いることで,要点や大事な部分が抜き出せる.あるいは,抜き出すことが数学とか自然科学の研究なのだ」という考え方といえるでしょう.しかし,そのような考え方をしていると,形式主義が今の数学の主流になった以降どうゆうことになったかと言いますと,「すべての集合の集合のようなもの」つまり“カテゴリー”をどうしても考えたくなってきたり,(僕の専門の)代数幾何学ではグロタンディック学派の人たちが,「カテゴリーのカテゴリー」にあたる“2カテゴリー”を考えたりとか.今は,「カテゴリーのカテゴリーのカテゴリー,…」とかという風に,“3カテゴリー”や“nカテゴリー”とかを考えたり,さらにはそれらすべて考えた“無限次元カテゴリー”.そのようなところまでいってしまっていたりするわけです.

 形式主義というのは,やはりいろいろ問題点があって,このような考え方では困るのではないかということが,今までにも認識され(かけ)たことが何回かあったと思うのですが,(形式主義の問題点としては,先ほどのゲーデルのもの以外にもいろいろあったのですが…)でも数学者たちは形式主義を捨てなかった.「脱却の機会」が何回かあったわけなのですが,結局そうゆう方向には進まなかった.それにはいろいろな理由があると思います.おそらくはそれと同じような理由が原因だと思うのですけれど,先ほどの“賢者の石”のような説明に対して「なるほど!」というように多くの方は思ってしまう.しかし,そのような方は,今日の話を聞いて内容をかなり理解してくださったとしても,次のところ(私が今日問題提起したいこと)には,なかなか届かないのではないかと,わたしは思うのです.

 今,ごちゃごちゃ言ってしまったのですが,もう一度別の表現でどのようなことかと言いますと… 今日の話では「これこれが数学の必然である」のような数学者の認識が論点であるかのようになってしまったのですが,同じように「これこれが数学の問題である」とか「これこれは数学的に証明できる」(ここで,ゲーゲルの一連の研究を連想してしまっておかしなことになってしまいます.ここでいう「数学的に証明できる」というのは,完全性とか健全性とかそのような話ではありません.「数学の考察対象である」とかのような意識がもう少し低いレベルのもの,つまり“原始的”と言いますか数学の根本に戻ったような考え方です.)このような言い方に代えても,先ほどの排中律に関しての議論と同じように,「数学の錬金術」がみえてくるわけです.先ほどと同じように並行した議論ができるということです.

 それは逆に言いますと,「どのような言葉を持ってきても,数学における錬金術というのは,うまく表現するのは結局難しい」ということになってきます.いろいろな言葉で同じような意味のことを説明できるということは,どれもせいぜい似たり寄ったり,どんぐりの背比べで,「これぞ数学の錬金術」,「これぞまさしく賢者の石」というような言い方をするのは難しいということだと思います.

 このように考えてみると,どこに考えが至るのか言いますと,つまり,今日は主に“排中律”のところで錬金術というものの話をしてみたわけなのですが,結局先ほど上で言ったような“錬金術”というのは,数学のありとあらゆるところ,いたるところで行なわれていまして,さらに言いますとそれは悪いものというふうにも考えられないわけで,逆にそれでもって数学が成り立っているように思えてこないでしょうか.これがわたしの問題提起ということです.


質疑の記録