講演記録:質疑

第二回 Alternative Mathematics 談話会 2005.6.3

「数学における錬金術 ― あるひとつの問題提起」
武田好史


講演記録|講演資料

【辻下】 どうもありがとうございました.まず質問などありましたら.

【藤本】 龍谷大学の藤本と言います.現在、哲学のほうを専門にやっていまして,数学のほうも,多少やっていますので,参加させていただいているのですけれども.

 ちょっとお聞きしたいのは,先生のおっしゃった数学の必然性,必然という言葉ですけれども,もちろん人によっては数学が必然であるというのはトートロジーで,数学というのは,そもそも必然というカテゴリーの下で成り立っているはずなので,数学における蓋然とか,数学における偶然という言い方をしたとたんに,数学そのものが消えてしまうと思われます.物理では,蓋然というと,実験結果が出ていないとか,理論的に確証できていない、ということになるので、そうなれば,それらはすべて蓋然という言い方ができるのですけれども,数学において蓋然と言った瞬間に,それは数学として認められない、というのが一般的な理解だと思うのです.数学における蓋然という言葉を使ったときに,様相論理を比較で使われましたけれど,様相の言葉を、つまり数学に対して,蓋然性という単語を使ったときに,その瞬間に蓋然という言葉自体が、数学のあり方に対して矛盾を孕んだ言葉だ、と思う人もいると思うのですが,先生は数学というものが,必然という言葉を,蓋然とか偶然という言葉と対比して使い得ると考えてらっしゃるのか,それとも数学は、必然的なものとならざるを得ない、と考えていらっしゃるのですか?

【後日加筆・藤本】→数学における必然、と私がここで述べたのは、証明の 完全性や公理系の存在に関わる必然性でして(もちろん、厳密なことを言えば、 ゲーデルの話などが必要だと思いますが)、例えば、確率論、量子論などにおけ る蓋然性と対比される「決定論という意味に近い必然性」ではありません。

【武田】 隠したりしてもしかたがないので… 僕は大学に入って数学をずっとやっていて,(4年生のころから代数幾何を専門にしたのですが,)正直に言いまして,それ以外を勉強をしたことはほとんどない.だから数学基礎論の知識というのはありません,もちろん様相論理の知識とか哲学の知識とか何もないので… 今おっしゃった意味での「必然」と「蓋然」というのがあって,その意味を考えた上で使い分けて「必然」を使っているのかという問いであれば,それに関しての答えはノーです.何か理由があって「必然」という言葉を使っているというのではありません.

 なぜ「必然」という言葉を使ったのかと言いますと,実は非常に漠然とした考え方から使っているわけです.数学者の定義は,あいまいさがないように,完璧にやっているつもりです.でも,もちろん見方によっては,あいまいな部分とかを指摘されたりということもあるわけです.でも心の中でそのようなとき,どのようなことを考えているかと言いますと,数学的に本当に正しいのであれば,指摘されたときにそれに合わせて,ちょっと問題の定義とかを修正したりというのを,必要ならいつでもやりますということを心の中で考えています.数学的に正しいことなのだったら,そのようなことをやっても悪いことではないという考え方が数学者の中にあります.

 そのような意味で,完璧なものにするために必要なら修正をする可能性を残しているという意味で,「必然」と言っています.すべて今決まっているわけではなく,この先,必要な修正のところも含みを残している,そのような意味です.哲学とかで厳密な使い分けがあるとすると,それからはかなりずれているのではないかと思います.

【藤本】 意見になってしまいますけれども.必然という言葉の意味を数学として考えるとき,リー群の表現論などは、例になると思います. 有限次元空間とか無限次元空間とか,そのような > 空間の上のいろいろな表現に対して、必然性というものを考えると良いような気がします。例えば表現が、いくつかバシッと出てくる,目で見て10個あるなとか,そのようなものだと表現の必然性は分かる気がするのですけれども,いくつあるのか分からないとか,無限次元空間の話になってくると,それは具体的に、〔行列のように〕実際に目で見ることができないわけですね.そうすると,その意味で、必然というレベルにも,強い意味の必然と,弱い必然というのは変ですけれども,いくつかあると思うのです。無限次元空間の表現論なんかを考えると,そこには、意外に直観主義的な意味も含まれているのではないか、という感じがしたのです.形式主義的な枠の中で必然というと,それで終わってしまう,固まってしまう感じがするのですけれども,階層分けといいますか,有限次元と無限次元を分けて考えると、必然の意味も変わってくると思います。

【武田】 わたしが主張したかったことと,ちょっとズレが感じられるのですけれども… (このように言いますと,今の質問にちゃんと答えてないことになってしまうということになるのですが,)終わりのほうでも言いましたけれども,「数学の必然である」という言葉を今日は主に使いましたけれども,それが重要だとわたしは全く考えていません.そこが重要なのではない.皆さんにわたしの言いたいことを伝えるのに,一番抵抗なく受け入れてくれる言葉かなと思ったので,単に使っているわけです.

 「この詩の中に登場する英雄の妹がいるかいないか.これは分からないけれども,どちらかに必然的に決まってしまう」と言う文を考えてみたとき,ここで「必然」という言葉を使うと,非常に違和感を皆さん感じると思うのです.でも,円周率の小数展開の中にゼロが1万回連続して現れる,これは「数学的必然である」と言ったときに,それほど違和感を,皆さんは感じないと思うのです.それはなぜでしょうか? こんなことを言うと「おまえは,詩の英雄の妹がいるかいないかは,必然的にどちらかに決まっていると思っているのか」という話になりますが,もちろん僕もそうは思いません.これと数学の円周率の小数展開と同じには僕にも見えません.「それはなぜか」というのも一つの問題点ではあるのです.もし,詩が本当にセンスある詩人が書いた詩ではなく,数学者が書いた無味乾燥なカチコチの詩であったりすると,何となく妹の存在の有無が,“数学の必然”に少し近づいたりするかもしれないけれども,例えばそれでどこまで近づけると,数学の問題だと認識できるようになるのかとか,そのようなことを考えても多分無意味です.

 それこそ心理学か何かの本の中で,こちらから見ていくと,この辺まで男の人の顔に見えて,こちらから見ていくと,この辺まで女の人の姿に見えるというのを見たことがあると思いますが,その連続した何枚かの絵のどこが境目か,そのようなことを考えることで“数学の本質”がとらえられると,もし思っていたら,それこそ本当に「プラトニズムに完全に洗脳されている」と思います.的確に質問に答えていないかもしれないけれども,必然という言葉が今日は何回も使われましたけれど,それほど意味があるとは…

【藤本】 ・・・前期ウィトゲンシュタインは,まだ、検証理論とか物理言語主義に、多少、影響されているようなところがあると思いますけれど、後期は、言語ゲーム論へと変化するので、先生のご意見は、分かります。それはそれとして,ちょっと,「必然性」という言葉の使い方に関わると思いますので,これは意見なのですけれども。先生の問題とズレてしまうかもしれないけれど,言葉の使い方は、つまり言語の意味は、文脈にもよります。「必然性」という言葉の理解には、文脈の意味論、というような考えも必要だと思います。どのような文脈,どのような言語の階層で、数学の言葉とか、矛盾という言葉を使うのか、ということです.

 ですから,僕が今イメージしているのは、うまくいい難いのですけれども,現実的な場面で使えるような文脈や、日常的な議論において使われている必然性とか偶然性という言葉の意味が,数学の世界でそのまま使用可能となっているのならいいのです。しかし、数学では、そういう使用は難しいと思うのです。何かしら〔数学と現実の間に〕言葉の階層を設定して、その階層の中で,はしごが、どのように架けられるのか、それは難しいのです.少なくとも連続的にはなっていない。完全に〔階層間が〕飛躍しているかどうかは、分からないですけれども,何がしかの梯子はあると思うのです.それがどういうものか、難しいのですが,それがないと、議論がうまくいかない.先生がおっしゃったように,階層の設定は、プラトニズムの世界に繋がる可能性もあるのですけれども,そういう世界は、あまり簡単には信じられないでしょう。それゆえに,何かしらライプニッツ的に、というか,必然とか偶然という言葉の持っている意味のレベル差を考える必要もあると思うのです.数学の定義に関しても、そういう差はあると思います.

【後日加筆・藤本】この部分について→武田先生が、詩の中の英雄の話に出てくる妹の存在の可否に関わる必然性という言葉と、数学で使われている数の存在の可否に関わる必然性という言葉を、同じような信念体系、文法規範の中で考えてられていられるのかどうか、それが疑問に思われ、質問しました。私が、[ライプニッツのモナドロジーやランベルトの言語哲学を念頭において]、言語の階層性について述べたのは、武田先生が、ウィトゲンシュタインを引き合いに出されたからです。それで、前期ウィトゲンシュタインとの間に影響関係があったウィーン学派の、ある種の言語階層論や物理言語への日常の言語の還元理論が頭に浮かびました。「数学的な意味での必然性」という言葉と、「現実に日常的に使われている必然性」という言葉の間に、どういう関係があり、どのような梯子が架けられるのだろう、思われたので、そういう側面から意見を述べたものです。
 ただ、ウィトゲンシュタインも、後期になると、完全に言語ゲーム論に移行し、言語の階層論とは異質な立場に移行しますので、私の意見は、武田先生の意を、十分汲んだ意見とはなっていない可能性があります。個人的には、タルスキー流の意味論は、集合論のパラドクスを回避するのには役立ちますが、武田先生が、後のほうで〔後日加筆〕述べているように、ある種の階層化は、哲学でも有名な「ミュンヒハウゼン・トリレンマ」の一つである「無限遡及」のパラドクスを引き起こします。また、無限の問題の先送りにもなり得ます。ですから難しいのです。
 しかし、そういう問題はあっても、ここでの私の主張は、必然性や偶然性という言葉が、どのような規範、言語ゲーム内で用いられているかを、はっきりさせるためには、必要である、ということです。ですから、別段、階層化させる必要はないかもしれません。階層化というより、「図式化」「区分」といったほうが良いかも知れません。しかし、数学では、例えば、有限次元ベクトル空間→無限次元ベクトル空間(→ヒルベルト空間→)バナッハ空間、というような形で、ある種の抽象化を進めますから、このような意味での「階層化」は現実に行われているわけです。

【武田】 哲学に関する知識がないので,うまく答えられないのですけれども…

【辻下】今の藤本さんの質問と少し関連するかもしれないコメント です。円周率の十進少数展開においてゼロが1万回続くことと、それが数学的 な必然であることとの違いというのは,数学の立場でもよく分からないによう に思います.実際に一万回続く場所を示すことと1万回続かないとすると矛盾 することを証明することとの違いは理解されているけれども,フジモトさんが おっしゃることは,数学でゼロが1万回続くというときは,それ以外はあり得 ないという必然性の主張を含んでいる、ということではないか、と思いました。

別の言いかたをしますと、ゼロが1万回続くことが必然的だと言には、いろ いろな自然数列があることが必要になります。自然数列がユニークだとすると、 この自然数列の数で位置が指定される桁についてはゼロが1万回続くことはなかっ たけれども,それより長い自然数列に対応する位置では一万回続いた、という ようなことがあり得なくなりますのでゼロが一万回続くことが必然か偶然かと いうことに意味がなくなってしまうのではないでしょうか。その意味では、円 周率にゼロが続くかどうかという性質が偶然的か必然的かというときには、自 然数列の複数性を認めるオルタナティヴな立場が暗黙にとられているというこ とになるかもしれあせんね。

【後日追記.武田】 藤本氏が何回か(この後の方でも),「階層化」により,わたし(武田)の問題提起の部分を捉えられるのではないかと提案されたのに対して,当日わたしは,自分の考えを何も明確に述べていないので,ここで,少し補足させてもらいます.たとえば,「数学の命題らしきもの」を認識したのがある階層で,それを数学の問題と認識し「正しいか正しくないかどちらかに必然的に決まる」と認識するのが,ひとつ上の階層であり,さらに「正しいのが数学の必然であるか,または正しくないのが数学の必然である」と認識するのがまたひとつ上の階層である等々のように考えると,わたしが問題にしようとしている部分は「異なる階層の混同に起因する」という考え方で捉えられるはずと思う方もいらっしゃるでしょう.
 しかしわたしは,「階層化」というのは“巧妙なトリック”でしかないと考えています.つまりその場合,ある階層,その上の階層,またその上の階層,またまたその上の階層,… というように考えていく必要が出てきますが,それは,「1,2,3,4,… というふうに“自然数”と言う基盤を利用している」と言うことです.従って,そこには少なくとも“自然数”と同じだけの“不明瞭さ”があることになります.つまり,階層化することで,“不明確な部分”を無限の彼方の目に付かないところへと追いやることができる.それにより「明確になったのだ」と納得しているだけではないでしょうか.
 あるいは,問題点を逃さないように(無限次元カテゴリーのように)すべての階層に等しく目を配ろうとしたとしても,それはウィットゲンシュタインの言葉を借りればまさに「この表現法は,これまで有限集合だけを扱ってきたのと同じ確かさで,無限集合を新装置によって扱うという,欺瞞の全体系の一部をなしている」のではないでしょうか.
 さらにまた,たとえば,ある階層が,あるとき確かに認識されたとしても,それを後に全く同じように認識することができるでしょうか? 出発点になった階層,それですら明確なものではないと思います.これは,自然数は無限に延びていくから不明瞭だというのではなく,「“1”と言う数だけを見ても不明瞭だ」という,次の西郷氏に対する答えの中でも少し述べていることと同じような理由です.
 すなわち,「階層化」することで何らかのことが明確に捉えられると思うのは,単なる思い込みではないでしょうか.

【西郷】 京都大学の西郷です.学生です.ウィットゲンシュタインの引用で,「ある無理数,無限小数をさらに展開することは,数学をさらに展開させることなのである」という引用があって,非常に印象に残ったのです.僕も多分プラトニストだと思うのですが,普通と少し違うのは,人間と一緒に成長していく宇宙というイメージがある.つまりどのようなことかと言いますと,ある公理を察していろいろやっていくと,直接証明できるというのはいいとしても,先ほども多項式の解が存在するということで,存在しないという選択は,これ以上数学として進めないから,存在するという方の宇宙を探っていくと言いますか,背理法というのは神様が決めてらっしゃるからという感じでなくても,例えば宇宙をより進化させていく,より豊かな宇宙を探っていくときに,多項式の解が存在しないとするという道はないから,するという方の公理を新たに設定していく.そのたびごとに設定していくというプロセスだと思うと納得がいくと言いますか,形式主義の立場というのも…

【武田】 それは「多項式の解が存在する」という数学の公理として取り入れるという意味ではないのですか.

【西郷】 僕は,現在の数学の立場ではそのように思われていると思いますけれども,ある意味で「公理を入れていく」と考えるといろいろ納得がいくという気がするのです.つまり存在しないと仮定すると矛盾するから,存在しないという方向で突き進んでいくことはできない.だから存在するという公理を入れて,限定されると思うのですけれども,より豊かな宇宙にしていくと言いますか…

【武田】 今,僕が君の話を勝手に要約してみると,「数学者が中に入って,背理法か何かで証明して,結果が出てきたときに,その結果を数学者はそれとは認識せずに,無意識のうちに公理として自分の中に取り込んでしまう.それは本人がそう認識しないでいろいろなところで新たに勝手に公理にしておけと増やしていく.」そのような考え方も,もちろんできるのでしょうけれども…

【西郷】 もしかすると,それも一つの錬金術ということの表現かなと思いまして.いろいろ錬金術ということで言わんとされていることは,いろいろな表現ができると思うのですけれども,一つの日常的にやっている錬金術にあたるのは,存在定理とかで否存在を仮定するときに,そのようなものが存在しない宇宙を探っていくと矛盾が起きてつまらないから,そのような進化の仕方は宇宙はあり得ないから,こちらの方向でより豊かにと.つまり叙事詩で言えば,作られていく叙事詩というのですか.やはり妹が必要になったら妹を書くではないですか,物語の中で.もちろん作者は一人ではなく,世界中の数学者だと思うのですけれども,妹が必要になれば…

【武田】 そのように考えることも可能だと思うのですが,僕は違う考え方をしている.それはなぜかと言いますと,今日最初に見てもらったもの(《講演の最初の引用文》)ですけれども,「神秘的なもの」という表現をウィトゲンシュタインはしている.でも,今の話だと,特に“神秘的”という表現が適当かどうか.(人間の感覚のものですからはっきりとはしないのですが…) あるいはその次の「直ちに誤った言い方,誤謬概念と解されないで」と言っているところから,(これは僕が勝手に想像しているだけということになってしまうのですが,)見ようによっては“むちゃくちゃなことをやっている”という意味だと思うのです.「でも数学者はそうは思わないで,むしろ“尊敬に値する”という雰囲気を持っていると数学者は思っている」そのような言葉遣いをしている.

 先ほどの話の内容,つまり,結果として出てきたものを数学者はそれと認識しないで公理として採用している.これではだれも軽蔑はしない.ですから,そのような(公理を付け加えていくと言う)表現で論じても何も生まれてこないと思うのです.ウィトゲンシュタイン自身,多分うまく表現できないと思っているから,「神秘的なもの」とか言っているというように,僕は想像するのです.でも,当の数学者は何か固い芯のようなものを,(本人が認識しているかは分からないけれど,)確固としたものを感じている.ただ僕の方が必ず正しいはずですと,強く確信をもって主張できるようなことも当然できないかと…

【西郷】 イメージとしては,生物というのは一つの細胞からだんだん変化していくときに,一つの細胞がいろいろな細胞になれたかもしれないけれども,だんだん手となりつめとなっていくと,もう後戻りはできない.そのような意味では,後出し的に言いますといちいち出る,新たに排中律が成り立ってくるという.

【武田】 (奈良女にもう一人,オルタナティヴ数学をやっている角田さんという方がいて,その人と前に話をしたことがあるのですけれども,)ピタゴラスの時代に無理数が発見されたということ,数学者がよく,それを数学の起源であるかのように考えている.しかし,例えば中国や他の古代文明の中にも数学と言っていいものがあり,三平方の定理にあたるものの認識はもちろんあったらしい.しかし,中国では無理数の概念を整えるという方向には,数学は進んでいかなかった.でも中国ではその後,数学が全く発達しなかったかというとそうではない.

 似たようなことで言いますと,日本でも西洋,ヨーロッパの数学の考え方はほとんどなかったけれども,ちゃんと和算というのが発達していった.(和算の人たちの考え方を見たことはないのですが,おそらく西洋の数学とは違う考え方をしていたのではないかと,勝手に想像をする.その人たちが,(現代のわれわれのいうところの)無理数を使った概念を,どのように解釈して使っていたのかちょっと興味がある.)現在,世界中で主流になっている,僕も知っている数学では,ピタゴラス時代に無理数が発見されたという考え方の上に乗って,その後,無理数,虚数,あるいは超越数へと続いていくと言われているけれども,もしピタゴラスたちが「有理数にならない数がある」というような表現で認識しなければ,ヨーロッパの数学も,(中国や日本のように)おそらく違う方向に進んで行ってたでしょう.そのようなことを西郷氏は言いたいのだと思います.

 しかし,(なぜそのように大きく構えているのだと言われるかもしれませんが,)今日皆さんに話したのは,(わたしが話したかったのは,)それとは違う部分のことです.「だから,何なのだ」と言われたら困るのだけれども… 人の話ばかり使って申し訳ないけれども,(おまえの考えはどこにあるのだということになるかもしれませんが,)ツジシタさんの言うように,自然数の1とか2とかいうところはともかく,自然数の先のところになるとどうなるのかよく分からない.単に自然数全体の集合の枠組みだけを決めているだけなので,あとその中に述べられている命題の矢印の一部分を使って,繰り返しやることにで,実際に構成していく必要がある.

 すると,例えば非常に大きな数字のところは,本当にあるのかどうなのかよく分からないということをになってくる.(辻下さんが言いたかったのは,ちょっと違うかも知れませんが…) 例えば,ゼロとか1から離れたずっと先の自然数については,ここにお集まりの皆さんだったら,はっきりしたものかどうか分からないという考え方は分かってらっしゃると思います.

 でも,例えば“1”という数字に関していろいろな考察を,今日は“1”というものは,これこれこのようなものだと認識して,そのあとまた別の考察で“1”というものに関して何か考察したりする.そのような時の,“1”という数字に関する“考察”をよく考えてみましょう.ついさっき,自然数が1,2,3,4,5,6,…とこちらの方向(横方向)に伸びていき,そちらの先の方があいまいだというのだったら,同じ“1”という数字に対しても,繰り返して考察していくことはこちらの方向(縦方向)に伸びていくことで,このように同じ“1”を使っているのだけれども,だんだんあいまいになってくるわけです.だから“1”はこうだということを,いちいち公理として認識して,それと対外的に宣言するとまでいかないにしても,自分の頭の中で“1”という数字に関することを言ったところで,先ほどの,こちら(横方向)にいくとだんだんあいまいになっていくのと同じように,こちら(縦方向)にいってもあいまいになっていく.だからそのような意味で言いますと,公理を付け加えるという明確な方法でとらえようとしても,それは何をやっているのかよく分からないことになってくるわけです.

【西郷】 “1”というものをただ一つに決めることはできないと思うのですけれども,あいまいさを含み,共通する部分について述べることはできますね.だからそれを…

【武田】 「あいまいさはあるけれども,共通している部分について述べることができる」と思うところに,数学者の思い込みが入ってしまっているのではないかということです.

【後日追記.武田】 当日は,ここで話が途切れていますが,“1”についての上の考察で言いたかったことは,「“錬金術”は数学の発展段階の中で,数々の要所要所に存在し,数学を次の段階へ導く重要な役割を担った」などとわたしは主張しようと“したのではない”と言うことです.つまり,おそらくどのような数学に於いても認識されているであろう“1”と言うものを例にとっても,「(和算であれ,形式主義数学であれ,)それぞれの数学の中でこの“1”について考えるときですら,大数学者に限らず,凡庸数学者をはじめ一般の人までが“神秘的”なことをしている」とわたしは考えている.なぜわたしがそのように考えるのかについての理由の一つを,次のフジモト氏との質疑応答の中の,「数学者は,実はプラトニズムの立場に立っていない」と述べたところ以降において,「数学科のよくある授業風景」を用いて説明している.またそれは,ずっと後の方の「ピアノ教室発表会でよくある風景」を用いて説明しようとしている内容と同じである.

【藤本】だから今,“1”という立場と、公理化するとという立場の話は,ある意味、ごっちゃになっていると思うのです.意味論的〔セマンティクス的〕な考察で、数〔の体系〕をどのように解釈するのか、ということと、共通部分を残すという話は関連しているけれど、後者を非常に簡略化した場合,それはシンタックス〔文法〕の話になると思うのです.直観主義は,ある意味、シンタクスでは足りないところを補う。それは、数の問題を取り込む場合も,われわれの意識の問題だ、と考える立場です。そのような意味も含んで、さっき文脈と言ったのですけれども。そうなると、数学も、生命に満ちた,ある意味、生々しいものに見える.それが逆に数学の持っていた、従来の意味での必然性を崩す可能性がある。ヒルベルトは、徹底した形式主義を立てた、つまり理想体系を立て、理想的な文法を抽出した。ヒルベルトが言いたかった普遍的な形式的原理というものは、意味論を入れてしまうと瓦解してしまうのでしょう。僕は直観主義とは、数を意味論の側から見ると,あのように成らざるを得ない「主義」だと思うのですけれど,ヒルベルトは〔そうした意味論的な立場を〕徹底的に排除した。

 だから最初,ヒルベルトは、公理化を、意味論入れない体系としたけれども,つまり、彼は犬とか猫をそこに入れても,公理が変わらない体系としたけれど、実は、意味を考えると、点も犬に見えてしまうのです.そういうことを廃したときに、何が出てくるかと言いますと,シンタックスとしての数学がみえる.その立場では、だから、どのような意味を考えるのか、ということは排される.つまり、そこに、どんな意味があるのか、というのを問い続けると,意味が支えている数学の世界が現れる.わたしが言いたいのは、公理化、形式化とは、個々人に依存しない、公的な,いわゆる、各人の心の中にある数学の理想の部分を取り出したものだ、といことです.そのような意味で、最大公約数的な数学を取り出していると,わたしは言いたいだけなのです.意味は分かるでしょうか?.そのような気がするのです.ラッセルとポアンカレの論争がありましたけれど,公理系で数学が閉じているなら、一つの証明から全部、結論が出てしまう.しかし、実際は、新しい数学が作られていく.そうすると,単なる形式主義では足りないので、直観主義とまでは、言い切れないですけれど、意味が介在している何かが、必ずあると思うのです.それがないと、新しい数学ができない.既成の数学を勉強したらそれで終わりになってしまう.

【後日加筆・藤本】→この箇所は、武田先生と西郷先生の論点の相が異なっているようにみえ、私も、武田先生が、直観主義の立場に立っているものと勘違い?、していましたので、一般の数学者が抱いている形式主義とは、ある意味で、いろいろな数学的立場の〔その意味で、各数学者の立場の〕最大公約数的な理想言語体系、公的数学記述の世界ではないのか?、ということを、述べようとしたものです。多分、新しい数学は、硬直した形式主義からは生まれてこないでしょうし、その意味で、数学をシンタクスと考えているだけではだめで、意味を考えないといけない、ということを言おうとしたものです。ただ、私は、個々人の心にある数学という言い方をしましたけれど、その立場に賛成している訳ではありません。ウィトゲンシュタイン流のゲーム論は、徹底的に、プライベート言語の世界を排します。彼の立場は、そいうい世界の存在はありえないというものです。ですから、数学の意味の担い手は、個々人ではなく、数学のもつ何か、〔あるいは社会の何か〕が、担っているのかもしれません・・・

【武田】 今日のわたしの話で,形式主義数学の問題点を指摘していると理解されていると,(わたしの立場から言いますと)誤解です.形式主義の考え方にも問題がありますが,そのようなことを言ったつもりは全くない.形式主義をこれからも続けるのであれば,続けてもらっても構わない.直観主義の方に行きたいという方がおられれば,直観主義の方に行ってもらっても構わない.別に「形式主義より直観主義の方が数学として本来の姿ではないでしょうか」とか,そのような主張するつもりは全くない.例えば極端な話,すべて形式主義の中で今日の話を聞いてもらっても構わない.

 先ほど,「形式主義からの脱却の機会」という表現を使ってしまいましたけれども,形式主義を取り続けても構わない,公理主義でやってもらっても構わないのですけれども,そのときに,意図的に数学者が認識するのを避けている部分があると思うので,それを皆さんに伝えたかった.僕自身自分では今まで,このようなことを全く考えないでずっと数学の研究をやって来た.そのときには,本当に意図的に見ないようにしていた.見ないようにしているということすら,自分で認識していなかった.しかし,あることがきっかけで感じるようになった.それを感じてしまうといろいろなことが気になる.気になると言いますか…

【藤本】わたしが言いたいのは,形式主義がどうとか、そのような意味ではなくて,勉強している最中,数学の勉強で、ある命題がどのようであるのかを証明しようとしたときには,どういう立場か自分では意識できていないけれど、いざ勉強から離れて、何をやっているのだと言われますと,数学固有のプラトニズム的な立場にナイーブにもなってしまう場合が多くて,それをそう語る場合が多い.だから実はそうではないのだろう、というところは、正しいな,当たっているな、と思うけれども.

【武田】 今の言葉を少し借りてわたしの立場を説明すると,「数学者たちが普段自分の研究をやっているときに,実はプラトニズムの立場には全然立っていない」ということです.でも,人に改めて聞かれると,プラトニズムの立場に立っていると答えてしまうし,自分でそうだと思い込んでしまう.でも本当はプラトニズムの立場に立っていないとわたしは考える.今日の話の最後に仕掛けを用意していました.意図的に皆さんを引っかけようとしたわけなのです.今日のような話で,まとめを聞いたりすると「なるほど」と多分思ってしまうのです.今回は意図的に仕掛けを作っておいたわけなのですけれども,この手の表現を見せられると,これが自分の解釈に当てはまっているのだというように,自分で思い込んでしまう部分がある.本当はプラトニズムの立場に立って研究しているわけではないのに,プラトニズムの立場に立っていると思ったり,あるいは形式主義数学の立場を踏まえたものと思ってしまっている.

 わたしはなぜそのように考えるのかというと… 数学科の学生向けの数学の演習の時間を連想してみてください.そこでは学生たちが問題の自分の答えを黒板に書く.そして学生たちに説明をさせてみるとよくあることですけれども,論理的,形式的には完全に正しいのに,「全く分かっていないな」と感じる.よくあることです.またそれは,わたしに限ったことではないと思います.しかし,考えてみると非常に矛盾したことで,「おまえの数学は直観主義か? あるいはもっと違った数学か?」ということになってしまう.先ほども言いましたけれども,普段の数学の研究や教育をするときは僕も形式主義の立場をとっている(と今でも思っている).でもそうだとすると,先ほどの僕の感じ方と矛盾しているわけです.形式的にちゃんと正しく説明していれば,数学的にそれはマル.「よくできましたね」と,笑顔で○をつけるはずなのですけれども,形式的な説明をすると「こいつ分かってないな」と思ってしまう.それはなぜでしょうか.

 別の例で言いますと,「数学は計算だ.公式を当てはめて計算すること」と子供たちは思い込んでいる.その感覚のまま大学の数学科に入学してきたところに,今度は数学というのは計算ではなく論理が大事なのだということを教えられる.そのカルチャーショックを乗り越えられるように鍛えてやらなければいけない.しかし,大体そこで脱落していく.では,論理が数学の本質かと言いますとやはり違う.

 奈良女に昔,岡潔さんという人がいて,(お弟子さんに直接聞いたのですけれども,)「計算も論理もない数学を目指したい」とその人が言っていたらしいのです.計算も論理も数学ではもちろん大事です.計算とか論理を無視した数学はあり得ない.しかし,計算が数学の本質かと言いますと,それはちょっと違うということになると思う.では,論理が数学の本質かと言いますと,これまた違うとわたしは考えるのです.では数学の本質は何なのか?

 僕はなぜ今日このテーマ(《講演の最初の引用文》)をやったのかと言いますと,僕が最近思っている数学の本質…(でも「これこれが本質だと思います」と言ってしまうと“プラトニズム”になってしまって,それもまたおかしいわけですけれども…)ある意味この文章を見たときに,自分自身が疑問に思っていたところ,そこに少し近いところに触れた表現であると思ったのでお借りしたわけです.その言葉をほかの人にも伝えたいと思ったのです.今日,主にその部分を言ったのですが,そこでは,論理的に考えるとある意味むちゃくちゃなことを数学者はやっていると言っている.排中律でないものを排中律だと.これが数学なのだと.

 そのときの説明に,「数学の必然」という言葉を使いましたけれども,「数学の必然」という言葉は,わたしが伝えたいと思っていることの中で,それほど重要なものではない.いや全く重要でない.「数学の問題である」という表現にしてしまったほうがよかったかもしれない.ただ「数学の問題である」と言ったとき,焦点がボケすぎるというので「必然」という言葉の方にしたのです.

 それと「これこれは数学的に証明できる」という言い方をすると,ゲーデルの方を連想してしまう人がたくさんいると思ったので,これも適当ではないということで「必然」という言葉を使ったのです.でも,哲学の方での言葉として定まった言葉遣い,使われ方があるのだということなので,これはよくなかったかなと思っている.そのようなところでつまらない誤解をまねく表現だったかなと反省しています.

 我々が普段,「抽象化する」ということで,完璧とは言えないけれども,本質に近づいたような気がするのは,それはそうだと信じ込んでいるだけ.自分はプラトニズムの立場で自然科学を研究していると信じ込んでいるだけ.

【郡司】 例えば,だれかがエレベーターに入って,(トイレとエレベー ターを間違えて,たまたま入っただけというような変な可能性は排除してし まって,)どこかボタンを押すに違いない.それがある種の“錬金術”であ る.そのようなことはやってしまえばできるのだけれども,やってしまった 結果についてはおもしろい場合もあるし,おもしろくない場合もある.ただ やってしまうということに関しては興味がある.だとするとそのようなこと をやってしまうということを何らかの方法で数学の中で展開することはでき ないのだろうか?

 先ほど僕はエレベーターを上がってくるときに,7階だということを十分 承知しているにもかかわらず,乗った瞬間に5階か7階か分からなくなって, 5階を押したつもりが7階も押してしまって,両方押してしまったのです.そ のときに扉が閉まって上がり始めた.そのときに,急に外からほかの人が2人 来て,ボタンを押して入って来た.その人がエレベーターのボタンを見て, 「おまえ,もう押したの?」「押してない」.どうもおれが2個押したという ことに気づいたみたいで,いやな空気が流れたのです.結局,僕は7階まで行っ て,その人たちは5階で降りたのです.

 そのときに「これは一体何なんだ?」と.先ほどの矛盾ということでいう ならば,PかノットPかどちらかに決めるということなのか,両方あるという のを認めていいのか,認めていないのか,どちらか分からない.単純な場合は どちらかに決めるという形か,両方とも認めるという形にしてしまうか.今の 話というのはそれと違いますかね.もしも人が再度入ってくるような状況であ るという形であるならば,僕が分からないで保留して,とりあえず2個押した のだけれども,もう一方は利用されるかもしれないわけです.その利用される 可能性があるという形において,あとで使われる.とりあえず保留して2個押 しておいて,あとでどちらかに決めるというのとも違うわけです.二つ押して しまってあとで利用される.他者とか世界ということが流れ込んでくるという ことを,無意識のうちに頭に入れているような感じでやってしまえるというこ と.ということはやってしまえるということも,ある種の意味なのではなかろ うか.

 つまりやってしまうということを,彼はトイレとエレベーターを間違った 可能性があるかもしれないという可能性も配慮して,限定することによってやっ てしまう.限定してやるつもりではなくて,実はやってしまうということが限 定するということ.そこで限定してやってしまうということを考えていくと, 閉じていないということが,やってしまった結果によってはすでに限定してい るから,閉じていないということが考慮の中に入ってきませんけれどね.閉じ ていないということは,実は積極的に入ってくるという形でやってしまってい る.決まらないにもかかわらず,とにかく押さなくてはエレベーターは上がら ないわけですし,そのような可能性を考えて…

【武田】 今の話を理解できているかどうか分からないのですけれども,実際に数学者が,自分のやろうと思っている数学を研究しているときの状況というのは,今の話とほとんど同じなのですが… ただ答えが分からないから研究しているので,それがどのような結果になるのか分からない.今自分がやっているこの行為が,答えに一歩でも近づいているのか.もしかすると全然違う研究をしてしまっているかもしれない.そのようにして,最後に出たものを,あとから考えたとき,「最初に意図したこととは全然違う」と思いかけても,最終的に「これは意に適うかな」と思ったりする.「そうか,これは感じていなかったけれど,このようなことを無意識のうちに認識していて,こちらの方を実験(研究)していたのか」とかいったぐあいに… でもこれは,思い込みが激しいというか,おかしいことです.実際に数学者が研究しているときを考えてみて,ウィトゲンシュタインの言う“錬金術”という部分は,本当は何なのか.今の郡司さんの話の中にもあったように,よく分からないからこそいいのかなと.ちょっと変なことを言っているようですけれども…

【郡司】 今のですが,そうかそうではないか以上に,分かるか分からな いか二つ押しちゃって,あとで誰かが使うという意味でのアンダーコンプリー トネスを求めるような形で理論を言うなり話をするというのは,まず限定する 瞬間があったことを排除して,限定したそのあと何か作っちゃうという話とは 違う形で数学の中で展開できればいいかなと.とりあえずやってしまったのだ けれども,あとで何がしかのものが利用するかもしれないという形での「留保 つきの決定」というものを,その留保とはだれかが使ってくれるか,そのよう な意味では,認めるような…

【武田】 おそらくそれこそ,この談話会の趣旨そのもの.新しい数学の一つだと思うのですけれども… 僕は,今までの数学の枠,(枠といっても「どの枠か?」と言われてしまうのですけれども,)枠から外に出ようとしている一人だと自分では思っているのです.しかし,やはり数学者を今までやってきた者は,何かを考えてやり始めてしまって,それが思いもよらない結果に至ったりしたときには,そのような見方で(最初は違うことを考えて始めたと正直に)表現をするのじゃなくって,「結局,これは全体としてこのような意味だったのだ」と,自分で全体を認識し終えて納得してからでないと人に伝えられない.そのような癖が体に染みついている.なかなかそうゆう意識や表現方法を打ち破れない.この談話会の趣旨の一つとしては,そのようなところに挑戦していこうということだと思うのだけれども,実際にはなかなか難しい.

 もし仮にそれができた場合にも,ほかの数学者がそれを数学と認識してくれるのかという言う問題もあります.たとえば,歴史の中で何回かあったように,それが数学以外のところで応用されたりして市民権を得たあと,数学者たちが渋々認めるというのがあり得る.数学ではない人たちが先導してやってくれるとありがたいと思っているのです.

【辻下】やはり武田さんのよう数学者自身がやり出すということがと ても重要に感じています。ところで、先ほど「考えるとプラトニズムだけれ ども」とおっしゃいましたが,プラトニズムというのは一番素朴な立場では ないでしょうか.つまり一度に把握出きる程度の日常的な有限世界を把握で きることを,そのまま、無限の世界まで外挿しているわけです.ですから、 ヒトは元々プラトニズム的に世界を認識している習慣を「無限の世界」に持 ち込んでしまったものがプラトニズムなのだと思います.だから「よく考え るとプラトニズム,考えなくてもプラトニズム」ではないのかなという気が します。だからこそ、ブラウアーの数学ではなくヒルベルトの数学が現代数 学そのものになったのではないかと思います。

【武田】 数学ではない人に聞かれたりすることがあることですけれども… 形式主義の立場だと記号論理学を使って数学を表現するわけです.記号論理学の中に出てくる「仮定が間違っていたら結論は何でも正しいのか」という話です.(今でも高校の数学でそれを教えているらしいですけれども,)それついて,今の数学者たちは「仮定が間違っていたら結論がなんでも正しい」それはそうだと思い込んでいる.しかし,例えば意味のある論文(数学の専門雑誌に掲載されているような論文)の中に,「これこれの仮定が間違っている.だからこの定理が証明された」ということを,本当に使っている論文があるとは思えない.それを使った論文が,数学の論文となり得るかと言うとおそらくだめです.論理的に正しいことだと認めたとしても,数学者はそこに“数学的価値”を見出すかと言うと見いだしていないのです.

【辻下】P ならば Q という命題が not P または Q と論理同値だとい うのは排中律と同じことですから、普通の数学でも、おっしゃったことと同じ ことは到るところでやっていることになるようにも感じます。ところで、先ほ どの話で,P または not Pという排中律自身には問題がないが,それに、□ をつけてしまうからおかしい、というように話を進められていたけれど,排中 律自身は前提とされているのでしょうか。

【武田】 今日は排中律の部分を問題にしたわけではない.だからそこが 何も問題ないと主張したいととられたのなら,それは誤解です.

【辻下】 話の筋としてそのような形をとったということですね.

【武田】 そう,例えば排中律までは議論しないこととして,排中律の使われ方について見ただけでも,これだけいろいろなことがあるということを言いたかった.今日この“錬金術”という言葉で伝えたかったような内容と似たようなことは,数学のいたるところである.排中律のところまでを議論するときにも,あちこちに生息している.

 最初にテーマとして挙げたところが,自分なりに一番興味を持ったのでテーマとしたということなのですが,それと同じように僕が非常に興味を持った言葉として,「問いが決定可能となるとき,その身分を変える」というか,全然違うものになってしまう.全然関係ないものと“連関”を作ってしまう.それと「無理数を展開するということは数学を展開すると言うことである.」ここで述べようとしていることを,数学をやっている人たちは,多分全然普段認識していない.むしろ認識していたりすると,数学の専門家にはなれない.もし学生が,数学の授業や演習のときにこのようなことを先生に質問に行くと,「君は数学が分かってないね」と言われて,排除されてしまう.

 このようなことは数学では考えないと思いつつ,でもほとんど数学の先生(数学者)は,学生が形式的な解答を黒板に書いて,形式的な説明をすると「こいつ分かってないな」と感じてしまう.

 これは僕がよくセミナーのときに学生に言うのですが,(セミナーの学生が予習してテキストを読んで来て発表しているとき,時々ごまかしたりするのが分かったりする.そのとき例え話として学生たちにいうのですが,)うちは子供にピアノ教室に行かせているのですが,そのピアノ教室の発表会を聴きに行ったときのことを考えてみてください.発表会を聴きに行ったときには,演奏される曲を僕自身はほとんど知らない.そしてさらに,会ったこともない,発表会のときに初めて見たどこかの子供さんが,僕の知らない曲を弾いている.でもそのときその子が上手か下手かというのは分かります.もしかしたら知らない曲だから,楽譜に意外なことが書いてあるかもしれない.「ちょっとつまって弾く」とか,「間違えたかのような音を出す」と楽譜に書いてあるのかもしれないのですけれども,でも僕としては「この子下手だな」とか,「この子上手だ」と“勝手に”決めてかかる.

 不思議なことに,同じように聴いている(僕と同じように自分自身ピアノなどやらなくて,子供がピアノ教室に行っているので,子供のためだからと来ている)お父さんたちも同じように感じる.さらに不思議なことには,「この子上手」と,「この子下手」と言う評価は,ほとんどの場合一致している.

 これは非常に大枠だけのことなのですけれども,さらに例えば,音程も間違っていない.間違った鍵盤を一度も押したりしていない.リズムも全く間違っていない.完全に楽譜どおりに演奏している,けれども「下手」と感じたりする.楽譜の上から判断すると間違っていないのに「この子下手だな」と感じたりする.そしてやはり,本当に不思議なことですが,ほとんどの人が同じように判断する.

 だから先ほどの「数学は論理ではない」と同じように,(音楽のことは分からないけれども,)音楽も多分そう.音楽では楽譜は大事だけれども,楽譜どおり演奏することが音楽ではない.リズムも大事だけれどもリズムが正確に取ることが上手なのかというとそうではない.音程も大事だけれども,音程さえあっていればいいかというとやはり違う.それと似たようなことが数学にもあるのではないか.今の音楽の話を数学に持ってきたのが,うまく言葉で表現できないような部分なのかもしれない.もしかすると錬金術のところかもしれない.

 だから僕の考え方だと,形式主義とか直観主義だとか論理主義だとかは問題ではない.あるいはそのような認識のなかった時代のやり方で数学をやる(たとえば,19世紀の数学に戻ってやる)としても,それで錬金術の怪しげな部分が排除されるというようなわけでもない.むしろ,われわれとしてはそこのところをちゃんと活かすべき.もし,今まで予想もしなかったような形で数学に活かすことができれば,今までとは違う方向の数学というのができるのではないかと思う.でも,それは今の音楽の話で例えてみると,楽譜をみせながら,「今までの楽譜の使い方ではない使い方で演奏してください」と伝えるようなもの.「何を言っているのですか」と相手の人は怒るかもしれない.それと同じように,よほど工夫しないと数学者同士でも「こいつ何を言い出したんだ.数学をやめたのか」と言われる.(僕も実は言われたことがあるのですが…)

 “今の数学の言葉”は非常にうまくできているので,かなりのことが伝えられる.それで逆に数学者は「“今の数学の言葉”で伝えられないようなのは,数学ではない」と思ってしまう.そう思ってしまう部分がある一方,先ほどから何回か言っていますように学生が形式的に説明したりすると,「こいつ分かってないな」と思ってしまう.(もちろんその判断は多くの場合正しいのです.)

〈○〉 似たような例として言語の使い方があります.言語というのはボキャブラリーと文法だけではない.状況とか雰囲気とか声の出方とか身振り手振りによって…

【武田】 そう,それとか,あえて逆の形容詞で言いたいことを伝えたりもする.でも,それによってさらに言語の表情が豊かになる.それに近いことが数学にもあり得るのです.今日何か新しい数学を,僕がここで発表するというのは,結局全くないわけですけれども,形式主義とか直観主義とか,そのようなのではない,そういう議論とは違う方向への数学の可能性というのは,ここに一つあるのではないでしょうかということです.だからといって「なるほど,それは使えるものだ」とみんなが思うような新しい数学を持ってきたかと言いますと,すみません,何も持ってきてはいない.しかしそのあたりを考えると少なくとも数学の可能性は大きく広がる.今までの数学では,できなかった何かしらのことができるというのは間違いないことです.

 今日わたしは,そちらの方向に展開していく道があるのではないかということを言っただけで,実際に展開して皆さんにお見せしたわけではない.展開して行ったときの出口がありそうというか,その出口らしきものを見たような気がしているので,ここで皆さんに話をしたわけです.でも,出た後というのは,そこは本当に大きく広がっているわけで,その中のどれを取ることが実際に有効なのか.そのようなとは始めてみないことには分からない.

〈○〉 僕は自然科学系の物理出身なのですけれども,最近読んだ本で,自然界で何かを説明するニーズがあるから,数学が構築されて,たまにそれが逆転して数学が先にいって,この数学が意味する世界は一体何だろう.逆転する場合がよくあるのですけれども,今数学の中での矛盾があるから,このような違う道をたどれることはできないだろうかというように聞こえるのですけれども,それに合うような物理的な世界の現象と言いますか,自由に何か物理的な現象を説明したいが,そちらの数学の新しい方向へ行けば,もしかしたら物理的にも,このような今まで説明できなかった現象も,新しい数学の言語の立場に立って表現できるのなら,そのようなポテンシャルもあるのではないかという疑問を,僕は持っている…

【武田】 その可能性は十分にあると思いますが,具体的に例で説明しろと言われると… 僕は数学以外の知識は分かりませんので… 例えば昔,その当時の物理における数学的解釈だと,発散してしまうものを「くりこみ理論」という数学らしき別の表現で表すとかということがありましたが… それと同じように,自然数の考え方を少し変えて,大きな自然数になっていくと“このよう”になっていくと考えていたものを,少し考え方を変えたとき,つまり,「“新しい自然数”を用いたとき,対応する物理現象の表現がどうなるのか」をまず考えてみたら何か出てくるかもしれません.

【藤本】 ちょっと勉強したのですけれども,それが数学として、どのような意味があり,これまでの数学と、どのような対応をもつのか難しいらしいのですけれど、超準解析は新しい数学として市民権を得ている.経路積分の測度を超準解析を使って書き下す、ということはなされていて、新しい数学と物理現象との関係は存在するようです。

【辻下】今のことと関係しますが、今の数学には有限概念が1種類しか ないのですね。昔物理の人と話をしてビックリしたのは,有限には数えられ る有限と数えられない有限があるということをごく普通に言われたことです。 アボガドロ数がありますが、1のあとに0が22個続く程度の数ですが、あれは 数えられない有限と物理の人は考えているのでしょう.今の数学者だと10の 22乗も10の100乗も量的に違うだけで質的な違いはないと考えます。その辺は 貧弱なところで、今の数学の発展を阻んでいるところだと思うのです.しか し、今回の話の文脈ではこのことは小さな話ですけれども.

【武田】 数学の方で先に先行して,(この談話会の趣旨の延長上で,)新しい数学が定式化されたとして,それを物理の人たちが見たら,このようなのは数学的ではないと感じるかもしれないという心配が一つある.物理の人たちには物理の人たちなりの「数学はこうあるべき」という思い込みのようなものがある.数学者が新しいものを,数学の一つだと認めた場合でも,物理の人たちからみると使えないという可能性も… 否定的なことを言っても仕方ないのだけれども…

 前回発表された角田さんと,昔話したことがですけれども,例えば,「新しい数学を」単に定式化するだけなら簡単にできる.でも,ほかの数学者とか物理学者とかがそれを見たとき,「なんだこれは?」,「それがどうした」というように見てしまう.「数学はこうあるべき」ということが数学者側にもあるし,物理学者とかほかの自然科学者にもあるのです.それに近いようなことを今日伝えようとして,「詩の中に現れる英雄に妹がいるかどうか」の話を引用しました.多くの場合,そのようなことは数学的でも何でもないと思ってしまいます.別にそれを思ってしまうことがいけないと主張するつもりはない.あれは数学の問題だという仮説を出しているわけではありません.でもだからと言って,どこからどこまでが数学の問題で,どこからどこまでが数学の問題とは言えないといった,その手の議論をたくさんしていくと,どこかで線引きできるようになるかというような発想もおかしい.そのようには考えにくい.

〈○〉 この新しい方向に行けるのではないかというのは,歴史的な中では,そちらの方向で考えるというのは,決して新しいことではないのは… 今はメインストリームというのがあるから,進展なのでしょうけれども,先ほどもおっしゃいました「和算」でしたっけ,日本の数学でルーツを解釈,もしかしたら独特なものが…

【武田】 たとえば,証明についての考え方は,その当時の西洋のものとは大きく違っていたようです.日本の和算は結果を出したけれども証明をつけていないから,西洋のだれそれの方が,これこれの公式を最初に見つけたとすべきと,ヨーロッパ人とか西洋の人たちは言うのですけれども,それは,自分たちの都合のいいように数学はこのようなものだと決めているわけです.先ほども言いましたけれども,証明は数学の本質かというと,(論理が数学の本質でないのと同じように,)多分違う.

【後日追記.武田】 「和算の人々には,証明と言う認識がなかった」という言い方は適切ではなく,「和算の人々は,“証明は本質的ではない”と認識していた」と言うのが適切ではないでしょうか.

 もう一つ例で言いますと,例えば20世紀初頭にヒルベルトがそれほど政治力を持っていなかったら,多分違う方向に今の数学は向かっていた.そして,かなり違う数学が世界中の大学で教えられていたと思う.集合位相も基礎論も教えられていなかったと思う.(奈良女子大にいるとよくこの話をするのですけれども,)「シーフ(層)」ではなく,「不定域イデアル」が普及していたのではないかと思う.「シーフ」と「不定域イデアル」と何が違うかと言うと,それは非常に難しい.これは,お弟子さんに聞いた話ですが,岡潔自身も「どこが違うのか私にも,うまく言えない」と言っていたらしい.「じゃあ,同じなんですか?」と聞くと,「いや,違う」と答えたそうです.「シーフ」の考え方は,今普及している形式主義数学では非常に的確に表現できている.「シーフ」を解説している本などを見ますと,岡潔の考え出した「不定域イデアル」という考え方は使いにくいので,このように使いやすい形にしましたと書いている.つまり,「不定域イデアル」で表現できることはすべて「シーフ」で表現できると書いているわけです.この二つの概念についてずっとそうだと言われているので,「不定域イデアル」の定義を見たことある数学者は少ない.だから実際にそうなのかどうなのかを,ほとんどの人は確認していない.しかし,そうだと信じ込んでいる.

【後日追記.武田】当日は,ここで話が途切れていますが,「不定域イデアル」の例でいいたかったことは,“現代数学の粋”の一つである「シーフ」と,それでは表現できない“何か”を備えている(可能性がある)「不定域イデアル」の違いを考えることで,我々が目指す「新しい数学」を,(「和算」を利用するよりも有効に)一般の数学者たちをも納得させるような形で展開する糸口が見つかるかもしれないという“希望的観測”です.
 ただし,それは“天才岡潔”ですら為し得なかったことに挑戦すると言う無謀な計画であるのかもしれません.

【辻下】話は尽きないのですけれども,懇親会でこの続きを。