2001.1.13

文献紹介

「競争社会をこえて−−ノー・コンテストの時代」

アルフィ・コーン、山本 啓/真水康樹 訳
法政大学出版局 叢書ウニベルシタス436 1994(原著1986年)
ISBN 4-588-00436-0
関連文書:Alfie Kohn, "Studies Find Reward Often No Motivator,Creativity and intrinsic interest diminish if task is done for gain"
 著者は、アメリカでは無意識に信じられている競争についての4つの考え 「競争は避けられないものである」「競争はより生産的なものである」「競争 はより楽しいものである」「競争が人格を形成してくれる」が神話に過ぎない と分析し、競争的社会構造を批判し、競争を協力的なものに変える方向を模索 しています。以下は、競争的な社会構造を変革することが絶望的に困難である ことを指摘しているところです。この本の趣旨からすれば多少副次的な内容で はありますが、今の日本にも大いに当てはまる普遍性のある内容ですので、紹 介します。

 なお、今の日本の状況に当てはめるには、冒頭の「現代の社会を競争的でな くしていけるかどうかは、最終的には、構造的な競争をなくしていけるかどう かにかかっている。」を「現代日本の人々の受動性をなくしていけるかどうか は、最終的には、日本社会の官僚支配構造をなくしていけるかどうかにかかっ ている。」と読み替えればよいと思います。(他にも種々の読み替えがあると 思いますが)

 最後の項5は、独立行政法人化反対者に当てはまると思う人も居るかもしれ ませんが、村社会的構造を保つための「目くらましの改革」が国大独立行政法 人化だと考えるべきでしょう。

どのようにして社会の変化を阻止するのか

p323 現代の社会を競争的でなくしていけるかどうかは、最終的には、構造的な競争 をなくしていけるかどうかにかかっている。残念ながら、どのような構造的な 変化をもたらす場合にも、ものすごい抵抗が予想されるわけであり、それをの りこえていくことがもとめられる。どのようにしたら変化をおしすすめていく ことができるのかということよりも、どのようにしたら変化を阻止できるのか ということについて述べるほうがずっと容易である。そこで、そのような気持 ちをもっている人びとのために、現状を永続させていくための簡単な方法を五 つあげてみよう。

1 視野を限定してしまうこと

アメリカでは、これまで長年にわたって、社会の問題と個人の問題がかかえる 構造的な原因が無視されてきたということについては、第7章でふれておいた。 たとえば、自分たちが心理的な不安をかかえていても、パーソナリティの発達 をうながしていく社会的な威力とはなんの関係もないようにとりつくろってし まうために、そのような威力がおとろえずに生きのっていくことに手をかして しまうのである。その結果、介入が行われる場合には、すべて個人のレベルで 行われるべきだとされてしまうのである。たとえば、...(有毒な廃棄物の 不法投棄から政府高官の収賄まで)それぞれの組織がおかす犯罪の例をまるで 真空のなかでおこったことのようにあつかいつづけるならば、こうした行為を まねくことになったシステムをまんまと生きのびさせてしまいかねないのであ る。

2 順応すること

現状をそのまま維持していく最良の方法は、ひとりひとりの人間が現状のもと める要求に確実におうじるようにするということである。...制度の枠内に おいて、既存のルールにしたがって成功しなければならないのである。うまく やるということは、適合するということであり、適合するということは、自分 が適合している構造を強化することになってしまうのである。

3 自分自身について考えること

「ほしいものをあたえること」によって成功をうながしていくべきだというこ とばは、自分自身の幸福だけを考えればいいのだということを暗に示唆してい る。自分のことだけに関心をもつように限定してしまえばしまうほど、ますま すよりおおきなシステムを維持していくのに手をかすことになる。だが、この ことは、たんに物質的な成功だけにあてはまるのではなく、治療の活動や精神 的な活動についても、現状をたもちつづけていくのに役だつのである。なぜな ら、自分自身の欲求に関心をむけていくようにうながすことによって、社会構 造から注意をそらしていくのに役だつからである。自分のことはきちんとやり、 そのほかの世の中のことはなりゆきにまかせておけばいいのだ。現存する構造 を永続化させていくのに、これほどうまい手があるだろうか。たしかに、個人 が成長することが社会の変化につながっていく可能性があるのだと論じる人た ちもいるだろう。しかし、人間の潜在的な能力を開発しようとする動きがあっ たとしても、たいていの場合は、この問題にとりくむことをもとめたりはしな いだろう。というのは、社会の変化は、人間の潜在的な能力を開発しようとす るその目標や手法とはなんの関係もないからである。

4 「現実的」であること 

さいわいなことに、よりおおきなシステムを擁護する必要はなにもない。ぎゃ くに、システムを非難する人に共感を示しながら同意することもできるのであ る。しかし、システムを非難する人に同意する場合にも、同時に、肩をすくめ てみせることが決定的に重要なのである。おおきな状況の流れにたいしてどう しようもないものだということを強調するためには、「好むと好まざるとにか かわらず」とか、「それがまさに現実なのだ」といったことばをどんどんつか うべきなのである。いうまでもなく、このように無力であることを強調するの は、じつはたいへんな力を発揮する。というのは、このように無力であること を強調すれば、事態が、まさに現在のままの状態に放置しておかれるのは確実 だからである。このような立場にたつようにうながされる人が、社会的な活動 を行うことによって救われる人でもあるわけである。

 ときには、現状に甘んじてしたがうことをこばんだり、変化をおこすには無 力であることを認めたがらない批判者がいるものだ。そういう人間には、ただ ちに「理想主義者」というレッテルをはってやるべきである。理想をもつとい うことが、なにか敬意をはらうべき意味あいをもっているように聞こえるとす れば、それは幻想である。理想主義者というのは、「世の中をあるがままに」 理解しない人のことだと考えてかまわないだろう(「世の中」=「現在の社会」、 「あるがままに」=「これからもずっとそうである」という意味なのだ)。こ うしたレッテルは、その批判者が現実や「人間性」をあやまって理解している ということに気づかせてくれるし、批判者のいうことをまじめにとりあげる必 要がないこともうけあってくれるのである。反対に、「実利主義的な」人びと は、いつも、現実にあたえられているものの枠内でなんとかしなければならな いのだということを承知している。いずれにしろ、代替モデルがほんとうに実 現可能なものならば、とっくにそれを利用しているはずなのである。

 現実主義にうったえるならば、批判者の立場がもちあわせている(したがっ て、現状がもちあわせている)価値観をめぐるやっかいな議論を避けることが できるという利点がある。批判者の見解を「善意なのはわかるが、実現不可能 なものだ」として簡単にかたづけることができるとすれば、どうしてこの問題 でわざわざ思いなやまなければならないのだろうか。批判者が提案しているこ とがただしいかどうかなどといいだすと、スローダウンさせることにしかなら ない。ノックアウトしてしまうためには、実際に有効かどうかにうったえてみ ることである。相手の人間にたいして考えちがいしているとか、不道徳的だと いってしまうと、そのあとでながながと議論しなければならなくなる。夢想家 だとか、純朴だといってやれば、相手の人間もそれ以上はなにもいえないだろ う。このように、変化のモデルをしりぞける方法は、抜群に効果がある。なぜ なら、この方法は、自己実現的な予言を行ってくれるからである。おおくの人 びとが代替になるとする仕組みがきちんと機能しえないものだと主張するとす れば、その人たちのほうがただしいのである。だから、代替になるとされる仕 組みが挫折しようものなら、そのことをひきあいにだして、昔ながらの懐疑主 義が実証されたのだということもできるわけである。公的な制度にたいして懐 疑をいだく政策立案者ほど巧みにこうした策略をもちいることができる人はい ない。彼らは、政府がただしいことなどするわけがないと確信しているため、 資金を公立学校や病院からほかのところにまわしてしまう。その結果、当然の ことながら危機が生じると、「それみたことか」というのである。

 現実主義にうったえていけば、社会の変化を助長してしまいかねないような 制度(たとえば立法部、大学、マスメディアなど)を、現状を反映するだけの ものに確実にとどめておける。民主主義、正確な記述、公正なジャーナリズム などそれぞれの名において、これらの制度を骨抜きにし、現存するものはどん なものだろうと、それを永続させるための強力な手段にしてしまうことができ るのである。...

5 合理化すること 

現行の制度を擁護し、そのことによって利益をえている人びとがあからさまに 社会の変化に反対しているときには、批判者がその現行の制度に反対するのは 比較的たやすい。こうした批判者に反抗をむずかしくさせ、同時に、自分自身 の良心をなぐさめるためには、自分がいまこのようにふるまっているほんとう の理由は「内部からシステムを変化させていく」ためなのだと主張すればいい のである。もちろん、このような言い方をする人たちとおなじように、自分も、 実際に変化を行っていくのに手を染めなければならないということはない。反 対に、ほんとうはこのことが自分の目標だとしても、社会の構造そのものを問 題にしないですむような、ささやかな改革を行うためにだけ働くのもいいだろ う。こうした構造の一部に組みこまれることによって、自分の地位をたかめよ うとする一方で、問題があると確信をもっていえることにたいして自分の才能 をふりむけることもできるのだ。(こうした策略のかたちを変えたものが、自 分はほんのみじかいあいだだけそうするつもりだといいきることである。たと えば、まるで追い越し車線をはずれて、出口のランプのほうへ車線を横切って いくことが簡単なことであるかのように)。ふてぶてしさをそなえていれば、 システムの一員としてくわわることこそ、そのシステムを変化させていくもっ とも有効なやり方なのだといって合理化することもできる。こういう論法をう けいれ、その例にならう人びとがおおければおおいほど、そのシステムはます ます安定することになる。