2001.2.18

IDEー現代の高等教育 2000年12月号p39-43|購入問合:IDE 事務局 03-3431-6822

研究の100年

--フンボルト理念から大学資本主義へ--
抜粋

中山 茂


目次

1.大学院か研究所か
2.日本の場合
3.物理系から生物系ヘ
4.基礎科学ただ乗り論
5.民営化の果て


20世紀を回顧してみると,大学の研究機能は飛躍的に向上した,とは言える。ただその間にあって,いろいろなことがあった。いくつかの問題を国際レベルでみた上で日本の特徴に言及する。

1.大学院か研究所か

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もう一つのモデルはドイツである。ドイツ大学は入学も卒業もない,学年制もない自由なところで,奨学金のアノと落第のムチのコースワークをその旨とするアメリカ型大学院をつくれなかった。しかし,第一次大戦以前にすでにアメリカの興隆に危機意識を強めた識者ハルナックなどによって,研究と教育とを切り離して,教育の義務から解放して研究に専念させるカイザー・ヴィルヘルム協会をつくった。第二次大戦後ほマクス・プランク研究所になっている。その研究と教育の乖離の方向をさらに徹底させたのは,第一次大戦後成立したソビエト・ロシアにおける,当時,最新の研究体制であったカイザー・ヴィルヘルム協会を真似した科学アカデミーであり,第二次大戦後にさらにその真似をした社会主義圏の科学アカデミーや中国の中国科学院である。大学は教育,アカデミー・研究所は研究というように,仕事の分割で効率を追求する社会主義政権のほうが優れたようにみえ,一時,研究は大学から研究所に移った,といわれたものである。

しかし,そうした分割を半世紀も続けていると,勝負がみえてきた。研究所には若い血が入りにくく,10年もすると老化の兆しがみえる。そして,1980年代にいたって,勝負はついて,アメリカの大学院方式にならえ,ということになる。大学院と研究所の相互乗り入れが図られるようになる。大学学部よりも,大学院でフンボルト理念は維持されることになったのである。日本でも,戦後アメりカの大学院制度が新制大学院に入れられることになったが,その実は必ずしも上がらなかった。80年代から,もっと大学院を充実させようということになり,今に至っている。

2.日本の場合

日本では明治の頃にどうもアメリカの影響らしく,大学院ができたが,当時としては研究大学院など時期尚早もいいところで,望むべくもない。やがてダメになり,旧制大学の大学院というのは,卒業生がかりに籍を置いておく待命期間のようなものであった。もちろんコースワークもなく,博士号とは直接つながらない。

日本の大学史で大きな意味をもったのは,戦前は日本はほぼ10年ごとに戦争をし,勝っていたから,戦勝記念というわけでもなかろうが,賠償もえたりしたので,10年ごとに新しい大学をつくり,そこに新しい血を盛り込んだことである。日清戦争後に京都帝大をつくったときは,東京帝大と競争させようという主旨であったようだが,学部学科,講座の名称でもできるだけ新しい,東大と違ったものをつくろうと意図し,学年制をやめるなど制度的にも新しいものを狙っている。

日露戦争後の東北大,九州大となると,もう20世紀,日本の大学にも研究志向が始まる。それまでは,制度づくりや学問の輪入に追われ,研究といえば,そのテーマも日本独自の対象を研究するローカル・サイエンスに限られていた。すでに東大・京大のポストは先輩たちによってしめられているから,新進気鋭の若手は新設大学に集まる。東北大学の初代教授たちも,若いときにドイツに留学して,その研究至上主義を盛り込んだ制度づくりを志す。欧文誌を発行したりして,世界の研究の第一線を志向した。少なくともその研究水準は東大・京大よりも高かった。

第一次大戦後は,大正・大学令が出て,大学が拡大されるが,さらに若き日の湯川秀樹の仕事を生んだ大阪大学、そして名古屋大で坂田昌一が戦後につくった教室会議制と,新設大学が一つ一つ意味をもって生まれたことは,軍事科学偏向だといわれながらも,日本の科学にとって幸いなことであった。戦後の新制大学改革は,経済窮迫時代に多くの大学を一挙につくるので,戦前のような意味をもってできたものではない。ただ,大学の大衆化に貢献しただけである。

もう一つ,大学制度としてユニークなのは,第一次大戦後以来多くできた大学付置研究所である。これはアメリカ人もうらやむものであった。ドイツのカイザー・ヴィルヘルム協会,ソ遵の科学アカデミーと同じ頃できたもので,大学の教育義務から解放するという意味で,共通する。同じ頃できた理化学研究所は.これもカイザー・ヴィルヘルム協会をモデルとするもので,日本での理想的な研究の場所として後世の語り草になっている,

3.物理系から生物系ヘ

大学における研究の内容からすれば,20世紀の前半は物質科学の時代,後半は生物科学の時代ということになる。その区切りをあえていえば,1953年のDNAのらせん構造の発見以未,分子生物学への道が開けた,ということになろう。ただ,その生物系というのも.エコロジーのような有機体論系の科学ではなく,あくまで機械論で,ただ,その適用領城が物質系から生物系に及んだのである。

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4.基礎科学ただ乗り論

1980年代は日本の科学技術が世界の注日を浴びた時代である。諸外国から日本の成功の秘密を探ろうと視察団が頻繁に訪れた。しかしやがて,日本の品質の高い製品は,大学の科学技術研究とは関孫はない,QCサークルのような管埋技術にあることを彼らも覚ることとなった。アメリカでは科学技術に日本よりもはるかに大きい国費を注ぎ込んでいるのに,日本より劣るのはどうしてだ,と関係各省に攻撃が集中した。そこで大統領科学技術顧問をはじめとして,国防総省,商務省は自らをテクノナショナリストと称して、矛先を日本に向けようとした。日本の科学技術の研究開発はすべて企業がやっていることである。基礎科学を行なうはずの大学には日本政府からあまり研究費が出ず,そのパフォーマンスも貧しい。そこで日本の企業はアメリカの政府が大学に支出している基礎科学研究費の上にただ乗りしているのだ,というのが「基礎科学ただ乗り論」である。

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5.民営化の果て

90年代は,日本を例外として,欧米諸国では,原爆製造のマンハックン計画のような第二次大戦中の科学動員体制にはじまり,半世紀続いた冷戦科学技術構造からの脱却・構造改革,つまり科学技術の民営化の時代である。軍産複合体への公共支出は少なくなったから,冷戦向けの科学技術よりも市場目当ての企業が自らの資金で民営化科学技術を支える。アメリカでは90年代は科学技術への公共投資は伸びないのに,ひとり民間支出は伸びる。その間に,80年代に欧米が日本に学んだことが現実にあらわれてきて,IT技術などで日本を凌駕することになった。平和の配当である。そして結局,欧米と日本とは同し方向へ収斂することになったのである。

資本は自己の中に中央研究所を持ち,そこで基礎研究もする,ということは,冷戦時代に(軍産複合体の一環としての)公共の資金を受け入れる受け皿として意味をもったが,ポスト冷戦期ではその受け皿は意味がなくなり,コマーシャルベースで行なうことになると,自分のところで中央研究所を維持するよりも、大学(そこには公共の金がまだ流れ込む)に外注したほうが安くて済む、とそろばんをはじくようになった。実際にアメリカでは科学技術への民間投資が伸びつつあるといったが,それは大企業の中央研究所ではなく,中小企業の目先の利益のための研究投資である。基確研究は大学に持つ。

「大学や研究機関の取得する特許」が冷戦時には数百であったのが,冷戦後は民営化の結果,数千になった。大学はそれを企業に売って巨大研究大学の士気を支える。大学は公共資金を使って特許を取って,私企業に売る所となった。「ただ直接のライセンス収入は研究責の1−5%にすぎないが」、研究費は政府の金,ライセンス収入は純粋に研究者への報償となれば研究者はそちらの方向へ血道を上げる。「このように企業は大学に研究の肩代わりをさせて研究料を大幅に切りつめ,手数科やロイヤリティに多少の投資をするだけで利潤を得ている」(マサオ・ミョシ「売却済みの象牙の塔」「現代思想』2000年9月pp‐30ff.“lvory Tower in Escrow”,p 41)。つまり,大学への公共支出を企業と大学人が山分けするところとして大学はある。企業にとっては,大学は研究と卒業生の人材派遺のアウトソーシングの一つに過ぎない。大学からは民間へ技術移転する,という。

かくして,大学の研究者はそれぞれの企業とライセンス契約を結ぶ。大学当局も個々の教授の研究契約からオーバーへッドを大学の経営資金に操り入れるために,ライセンス研究を奨励促進する。そして,学会誌に無償で発表して,人類共有の知的財産に貢献しようとする自由で開放的な古典的アカデミック・サイエンスは崩壊し,産業化科学が進行する。これを大学資本主義 Academic Capitansmともいえよう。そして「旧式の純粋科学者と未未志向の企業家的教員との対立が進行する」(「同上」p‐41)かつてジェネンティックスが大学に進出して,研究成果の公表公開よりも,研究室間に企業秘密の壁が設けられることになった,と嘆かれたが,今や基礎研究・応用研究という学問分類よりも,ファイアウォールなしの研究と,ファイアウォールの中の研究とに分類される。

今日問題になっている日本の大学のエイジェンシー化,独立行政法人化のねらいの一部、あるいは大部分は,こうした大学資本主義である。そして,腕に自信があり,産学協同に野心を燃やす理工系.バイオ系の純粋よりも応用的な分野の教員によって推進される。いまや欧米と同し路線に収斂したのだから,80年代までのように,日本が金儲けのための研究に専心して,欧米を抜くということはできなくなった。同じ路線の上での競争となると,アメリカなどに負けそうである。そういう危機意識から,産業界も独立行政法人化を支持する。教育レベルでは古典的教養科目派のいう「いやらしい専門主義 grim professionalism」がはびこり,径営,法律,コンピュータ科学のような「金になる」学科が跋扈し,大学の専門学校化が進行する。その目的とするところは役に立つこと,それも深い意味で有用というのではなくて,目先の「金にならないか,なるか」によって,古典的リベラル・アーツ(そこには研究面では基礎科学・アカデミック・サイエンスが対応する)か,プロフェッショナリズムかが分かれる。金をもうけることも知的に興味あることではあるが,それには限定がある。それに対して無 限定なのが学問の自由である。無限定な学問の人文系はもとより,社会科学系も,純粋科学系も,企業化した大学を支える科学技術の余禄,捨て扶持で支えられることになる。

(神奈川大学非常勤講師/科学史)