はじめに昨年、中田市長からのご指名を受けまして、法人化される新生「横浜市立大学」理事長の大役をお引き受けすることになりました、孫福でございます。私自身横浜市民でありまして、新しい市立大学のために全力を挙げて貢献できることを大変光栄に感じております。関係者の皆様方のご協力をどうぞよろしくお願い申し上げます。
まだ3月までは慶應義塾大学に籍をおきながらではありますが、早速本年1月から横浜市大学改革推進本部顧問として、大学改革と法人化のための準備作業に多くの時間を投入し始めており、それとあわせて横浜市立大学の実態についても目下学習中であります。
市立大学としての経営は、財政面をはじめとしてきわめて厳しい環境下に置かれていることは申すまでもありませんが、それらの制約のなかでなおかつ、納税者である横浜市民の要請にこたえることのできる大学、第一義的には学生のための大学として、いかに理想を実現するかという命題に立ち向かわなければなりません。
この「コース案等検討プロジェクト部会」の位置づけについてはただいま大学改革推進本部長職務代理である大学事務局長から説明がありました通りですが、今申し上げた意味でのこの部会の役割はきわめて重要であります。
その初回にあたりまして、アドバイザーとしての立場から議論の方向性についての私の考えを述べさせていただく機会を頂戴しました。理事長予定者として私自身が「大学教育のあり方」に関してどういう考えを持った人間なのかをぜひ知っていただきたいという意味合いがまずございます。そのうえで、議論の内容そのものについては大いに闊達な意見を出し合っていただきながら結論にたどり着くことを願っておりますが、その前提としての「コース、カリキュラムの開発」にあたっての基本的な事項、大枠のコンセプトについても私の見解を述べさせていただき、皆様方と考えを共有するところから議論がスタートできれば大変嬉しいと考えております。
1.討議の前提条件
まず、話の構成を簡単に述べておきますが、「討議の前提条件」ということと、「誰のために議論するのか」ということ、「どんな人づくりをイメージするのか」、それから、そのためには「どんな教育をイメージするのか」。そして、それらを踏まえて「リベラルアーツ」と「専門教育」の関係について考えを申し述べ、「コースとカリキュラム」を議論するに際しての考え方に触れたいと考えております。
最後には、結局突き詰めて考えると、これらを総合して「パラダイムの転換」をやる必要があるのではないか、横浜市立大学でなければできないような教育のあり方、大学のあり方を我々は目指すことが望ましいのではないかということで、「横浜市立大学モデル」を提示できれば、という想いを述べたいと思っております。
では最初に議論の前提を一言だけ申したいと思います。これは言ってみればもう常識に過ぎませんが、「部分最適」と「全体最適」ということです。
大学での議論の場合、よく批判の対象になるのが「学部のエゴ」とか「学科のエゴ」「専攻のエゴ」あるいは「個人のエゴ」などです。発言する本人は中には意図して「エゴ」の主張をしているつもりはないのだけれど、どうしても部分しか見えないために、部分の最適を主張してしまう結果、「部分の最適」は「部分の増殖」の論理になって「全体最適」をもたらさない。大学という組織の全体が存続し発展していくためには組織全体としての「最適」を常に求めなければならないのに、それを却って阻害してしまう結果になる。したがって、議論にあたっては常に「全体最適」を判断の基準にして、横浜市立大学の理想形を考える姿勢を貫くということを、共通意思としていただきたい、ということであります。そのためにはここにあるように「広い視野」「オープンマインド」が前提となり、できるだけ情報やものの考え方を共有する努力とか、フェアな議論とか、他の人の立場を理解するという気持ちとか、協調・協働・協創と書いてありますが、こういう姿勢が基本でなくてはならないと考えます。繰り返しますがこれは言わずもがなのことであって、余計な発言であったらお許しをいただきたい。
もう一つ、「全体最適」ということも内向きに考えていては、いつまでたっても望ましい結論にはたどり着けない。組織論の常識から言えば、外部環境の中の組織というとらえ方で、外部環境に組織がいかに適合していくかを考えなければならない。内向きでなく外向きに考えていかなければならない。それが、「戦略的思考」ということであります。外部環境の変化とその方向性を睨みながら、戦略的に環境への最適合を考える。その中には外部環境そのものを変えるという戦略発想をも含むのでありますが、いずれにしてもそういった外部環境との相互作用を戦略的にやっていかなければならないわけで、そういう視点をぜひ取り込んで議論をしていただきたいということであります。その場合にも、横浜というLocalな地域、日本全体、たとえば全国的なレベルでの産業界との関係など、National な範囲、さらにはGlobalな範囲での外部環境などをそれぞれ念頭に置きながら戦略的な対応をしていく、そういう考え方をぜひ入れ込んでほしいと考えます。
2.誰のために議論するのか
次に、誰のために議論するのか。それは、学習者としての「学生」のためでなければならない。「教員」のためであったり、「職員」のためであったり、あるいは「経営者」「管理者」のためであってはならないということです。ついつい我々大学人は、無意識のうちに「大学は教員のためにある」と思ってしまいがちで、「大学の教員は天動説の人種だ」と皮肉られたりするわけです。もちろん大学の機能の一つである「研究」は教員が担っており、それを通じて社会に貢献するという意味での大学の存在は大きいのですが、少なくとも教育面に関していえば学生(学習者)がいないと教育は存在し得ないわけで、学生を中心において大学のあり方を考えることが大前提だと思います。 この点に関してすこし歴史的視点で見てみましょう。戦前・戦後・21世紀という時代の大きな括りで比較をして見ますと、戦前は明らかに大学は「国家」のためのもの、国家の必要とする人材を養成するというのが帝国大学の目的であったわけで、国家が大学を作り、国家のために教育をするという考え方が支配していた。これに対して戦後は「社会」というものが登場する。戦後の「学校教育法」の大学の条項は、条文からは「国家」が消え、それに代わって「社会」が背景にある。これが法律の条文から「フォーマル」な次元で読み取ることができる思想ですが、実際に大学は誰のために存在したかと見てみると、現場のレベルで見る限り明らかに「教員」のためであり、大学の中心(主役)は教員であったということである。これも徐々に変わりつつあるが、まだまだこの思想は支配的なままである。それに対して21世紀、これからの時代は、学ぶ側を中心にすえた大学というものを実現していく必要があると思う。
実際に世界の大学の歴史を見てみると、12世紀のヨーロッパに誕生したウニヴェルシタスという中世型の大学が原型であるわけですが、最も早く成立したのがボローニャ、続いてパリ大学です。ボローニャは学ぶ側(学生)が組合(ウニヴェルシタス)を作って大学を運営し、教師を連れてきて教えさせる。そして評価によって契約も決めるシステムをとっていた。パリのほうは逆に教える側(教師)が組合を作って運営していた。したがって、今まで学生が大学の主役であった時代がなかったわけではない。というか、学びの原点に立ち返ってみると、学生を中心にすえるという大学論があってしかるべきだと思うし、これからはその方向に向かっていくのが大きな方向性だと考えます。実際に世界の大学を見てみると、この方向に一番近いのがアメリカで、最も遠いのが日本、ヨーロッパはその中間だと思いますが、そのヨーロッパも急速に変わりつつあるという印象です。
さて次に、どんな人づくりをイメージするのかという問題です。横浜市立大学の抱えている知的・人的資源、物的資源、財政的な資源について詳しく細部にわたって理解しているわけではありませんので、一般論のレベルで議論しておきたいと思います。
3.どんな人づくりをイメージするのか
どんな卒業生を横浜市立大学として輩出したいのか、どういう人づくりをしたいのかということですが、まず、卒業生が生きていくのは21世紀の未来社会ということですね。これが大前提。未来社会の中でどういう生き方をする人間を育てたいのか。第1には、ある意味で最低ラインの要請だと思いますが、個人の自己実現が達成できる人物ということですね。そのためには、自己の確立、思考力、表現技法がなければ自己実現はできないと思います。論理的な思考力とものの考え方の柔軟性、さらには二一世紀の未来社会における様々な形の表現形式を駆使できるスキルと能力が要求される。その上のレベルの要請になると、21世紀の社会で役割を担って活躍できる人物ということになります。自己実現ができて自分が人間として充分生きたなあという満足感を持てるということは基本ですが、更にその生き方自体が社会に貢献をもたらして社会から評価される、そういう活躍ができるということです。そういう意味でいうと価値観の確立にとっての基本軸を構成する要素としてのリベラルアーツとか、21世紀社会に必須のスキルとか専門知識、さらにはそれらを成果につなげる力としてのコンビテンシーという要素が付け加わってくるのではないか。更に上のレベルの要請としては、21世紀の社会を先導していける人物、大きなスケールでのリーダーといえると思いますが、そういう人物が輩出されるのが望ましいのではないか。これはやはり、リーダーになる以上、コンセプト・メイキングの能力、つまり概念構築力を持つ必要がある。それに加えてリーダーシップ、使命感、それに倫理観、世界観がバックにないと社会の先導はできないと思います。それから、更にその上のレベルの要請にいくと、21世紀を創造していく人物を輩出したい。これは一番大変な役割ですが、そんなに沢山いるわけではないので、こういう人が出てくれるといいなと思います。こういう人物に要求されるのはまさに、ヴィジョン、イマジネーションとソーシャルデザイン(社会をデザインしていく)力、文明観というものだと思います。こういうふうに下から上へいくほど難しくなっていくわけですが、こういうあたりが輩出したい卒業生、少なくとも学士課程の成果としてこういう卒業生を輩出したいということではないかと思います。したがって、言わずもがなですが、学者を再生産することは学士課程の目的ではない。また、フォロアー、つまり一般大衆を育てるものでもないということです。今の大学というのは、高等教育への進学率が50%近くになっており、2人に1人は大学や短大に行くという時代である。そういう大学進学者のニーズに応えるということからすれば、リーダーや社会を引っ張っていく人物を育てることを目的としていない大学がたくさんなければならない。日本の大学でも実際に一般大衆といいますか、普通に「良き市民」を養成することを大学の目的としている大学が沢山あります。そういった大学の存在価値は大きいし、その観点からの大学論は大いに傾聴しなければならない。しかしながら、横浜市立大学はそれを目指すのではないというのが、教育機関としての使命の特色なのではないかと思います。ある意味でエリート的な教育機関という分類をされることになるかもしれませんが、その場合には従来型のエリート教育との間での「エリート」の意味の違いを、明確にしておくことが必要だと思います。ここではこれ以上深くは触れませんが、ここで大きな役割を果たすのがリベラルアーツのもつ意味だろうと思っております。
4.どんな教育をイメージするのか
さて、そうすると、こういう人間を育成したいとなるとどんな教育にしたらいいかということになるわけです。大学が掲げる目的と使命をいま一度考えてみたいと思うのですが、これは、つきつめると「4年間の学習効果を最大化する」ということだと思います。大体どこの大学でも入学式、卒業式では学長が話しをしますが、その中に出てくるのは、「我が大学の使命は、我が大学の目的は、教育と研究にある」というわけです。教育と研究が大学の目的だろうか。研究はさておいて、教育は必ずしも目的ではないと私は思います。教育は手段である、目的とは「学生の学習」である。学生が学習を行わない限り、教育があってもその教育は効果を発揮しないわけです。教育が目的であれば大学の教員は、「教師の良心にかけて恥じない教育をやっている。だから、私は大学の教師としての使命を果たしている。大学の目的を果たしている。それについてこられない学生がだめなんだ。こういうだめな学生をとっているからこの大学はだめなんだ。」というふうにいえるわけですね。だけど、教育は目的ではない。教育は学生の4年間の学習効果を最大にするために必要な手段である。そしてそう位置づけられた途端に、教師が自分の考えに基づいて理想的な教育をやっているといっても、学生の学習に結びついていない限りそれは手段として失格なんですね。というふうに考えるべきだと私は思います。
そう考えていくと、「学習」が最重要な位置づけとなるわけです。大学の教育活動はすべて学生の学習を中心に考えることになるのですが、そうなると学習のあり方を分析・考察する必要が出てくる。
まず経験と観察から学習のスタイルは能動的学習と受動的学習とに分けられる。学習の効果を最大にするという点からみると、学習のスタイルと学習効果には非常に深い関係があって、能動的な学習というのは学習効果につながるわけでして、受動的学習というのはなかなか学習効果があがらないということです。学習スタイルとモチベーションの関係はきわめて大きくて、モチベーションがどのくらい高いかということと能動的学習か受動的学習かというのは決定的に繋がっている。そうすると、モチベーションをどうやって起こさせるかということが、非常に重要になってくるわけでありまして、学習の中心的テーマになるわけです。そこで、自分と何らかの点で深くかかわる問題意識、いわば自分のテーマを見つける、最近では「問題発見・問題解決」という言い方をしますが、個々の一人一人の学習者にとっての固有のテーマ、そういうものを学習者自らが見つけるということが、モチベーションと深い関係にある。その場合、「問題発見」というのは「自己発見」とイコールといってもいいかもしれません。自分自身が何者であるかということを確立していくこと、個として独立していくこと、そういうことがないと本当の意味での自分固有の問題を発見できないと思います。大学4年間は自分探しの期間だいわれることがあります。我々の世代の感覚からすると大学の4年間が自分探しというのはちょっと情けない感じがしないでもありませんが、今の時代、自分を確立してから大学にはいってくる若者はそんなに多くない。トップエリートといわれる大学であってもそのようです。やはり、自分が本当は何に興味があるのかが分からなくて4年間探しに探しているという人も多い。その人たちには自分探しというのをいかに支援してやるかということですね。これは教育を通じて気づきを与える、気づくきっかけを与えるというということ、それから価値観の確立。自己発見というのは価値観そのものですが、価値観の確立をサポートするということが大学の教育の中で大きなウエイトを占めるということかもしれません。学習の成果を最大化するということは、自分自身のテーマを確立し、モチベーションを高く維持して学習するというスタイルを持てる学生をなんとかつくりたい、あるいは学生をそういうタイプの学習者にして学習の成果を最大にしたいということであります。
ここでそれに関連して、「教育理念と入学選抜方法のベスト・マッチング」と書いてあります。初・中等教育を通じて、早い段階で自己を確立しているといいますか、そういう人間を、教育を受けるに相応しい対象ということで、入学選抜の段階で選んでいくということが大事である。必ずしも偏差値が高いとか低いとかいうこととは別の次元の話として、もう一つの選抜の基準というものがあるのではないかと思います。私が現在所属している慶応義塾大学(SFC)の場合でも1990年に日本の大学で初めてAO入試を導入したわけですけれども、AO入試の考え方というのは、一つにはこういう思想に基づいている、AO入試で入った人の4年間の学習パフォーマンスが非常に高いということですね。モチベーションの高さ、自己発見というものを経てきてているというのが非常に強いと思います。
そういうことを考えると、教育というものについて少し既成の常識を変えてみる必要があると思います。それは、一つは、教育の行われる「空間」・「舞台」、もう一つは、教育の「主役」は誰かということです。
まず、教育の現場としての空間、舞台を、それは当然「教室」に決まっている、というのがこれまでの常識です。それに対して、いやいや、本当の教育の現場はキャンパス全体に、さらにはキャンパスを超えて街に広がっているという考え方が対立している。一方、教育の主役は教師であるというのと、学生が主役であるという2つのベクトルの対立項で考えてみることができる。そうすると二つの座標軸で4つの象限が表現される。
教師が主役で教室が舞台であるというのが、初・中・高等教育を含めて我々にとって最もなじみのある伝統的な教育観です。このタイプの教育スタイルを「知識伝授型」と名づけることにしましょう。明治以来の日本の近代教育の典型的な姿としての究めつけは、明治終わり頃の東京帝国大学法学部の授業です。教授が一字一句読み上げる内容を一時間まるまる筆記するというのがそのスタイルです。それほどまででないとしても、現在もこのタイプの授業というのは主流である。それに対して、「創造性開発型」、言い方を変えて「能力開発型」としてもいいのですが、授業で問題意識のきっかけを与えられ、あるいは基礎的な知識等も与えられるかもしれないけれども、それをきっかけにして学生が自分のテーマをもって、「問題発見問題解決型」「自学自修型」と言われておりますが、自分で自らのテーマを追求するという形で自学自修するというプロセスですね。舞台は必ずしも教室ではなくて、図書館であるとかデータベースのようなインターネットのバーチャル空間など、キャンパス内の空間全体を使って学習する。それだけじゃなくてキャンパスを越えて街へ出て生きた学習を進める。最近はインターンシップが流行ですが、インターンシップを単独で議論するのではなく、こういう全体的なコンセプトの中で位置づけられているというのが大事だと思います。また、これまでの座学中心から現場重視、実践学的志向とか、これからは、暗黙知、身体知というものも含めて広く知ととらえるということが必要だと思います。
そう考えると、教育から学習へ、教育支援から学習支援へ、というパラダイムのシフトが重要になると思います。大学の目的や使命がもし教育だとすると、大学の政策として、教育をいかに支援していったらいいかということになる。そうすると、教室の環境や教授の教育のための支援について考える。一方、学生の学習が大学の中心だとすると、教育は学習に最大の効果を得るためになくてはならない中心的な手段ということになる。手段になったからといって、別に教育の価値が落ちるということではなくて、これまで以上に教育の役割というのは大事になるわけですが、ただ目的ではないということははっきりしている。それから同時に学習の効果を最大化するためには、教育だけでは限界があるんですね。教育だけではだめで、「学習支援」という機能が、教育にプラスして存在しなければならない。キャンパスの様々なところに学習行為を支援するしかけというものが、沢山つくられなければならない。日本では、ここのところが一番欠けている。ですから、日本の大学の仕組みというのは、教師が教室で教育をする、授業をするのが教師ということになる。
それから、一方事務職員は窓口の業務をやったり、経営のほうをやったり、割り当てられ決まりきったことをするということになっている。そうすると教室での授業と窓口業務や経営業務の境界領域である中間的なものがない。こういうことがアメリカではかなり進んでいる。アメリカの多くの大学では、例えばセンター・フォー・ティーチング・アンド・ラーニングというような名前の機構があり、教育を支援する役割と同時に、学生のラーニング(学習)を支援するという役割を機能として持っている。実際に論文の書き方、文章の書き方の指導や添削は授業でもやるのですが、学習支援の機能としてキャンパスの中にそういう機能を持った組織が活動している。そういうふうな形で開発していかなければいけない最も重要な機能が、日本の大学ではいまだ処女地として手付かずの状態であると思います。
5.リベラルアーツと専門教育
つぎに、リベラルアーツと専門教育について話します。
そもそも、リベラルアーツの内容は「七自由科」と言われています。これはローマ時代まではさかのぼれる話のようでして、ワルロ(前116-27)という人の『訓練論』で、教養の基礎について論じています。この中で、基礎三学芸「トリウィウム」、高等四学芸「クァドリウィウム」から構成される「七自由科」が提示されているのがどうやら確認できる一番古い話のようです。基礎三学芸とは文法、論理学、修辞学、高等四学芸とは、算術、幾何、音楽、天文学。これは西洋の学問の一番基本のところと考えることができます。東洋(中国)の学問との本質的な違いとは「論理学」で、東洋の古い学問には「論理学」がなくその代わりに「歴史」がある。東洋では歴史観が学問の基本的なところとしておさえられているが、西洋は学問の基本に論理学がある。それが、中世大学にいくと、教養学部(これがリベラルアーツを学ぶ学部)が基本になりまして、その上に神学、法学、医学、の専門学部があって、基礎を終えた人達がそこに進む。この専門学部は今でいうとみなプロフェッショナルコースになっていますね。それぞれがプロフェッションになるわけです。この4 つの学部がないと中世大学は完成形ではない。このパターンがアメリカのリベラルアーツカレッジになっていったわけだし、日本の戦後の大学の構造で、最初の2年間は教養で、後2年は専門という区分けになっている。アメリカの場合、この教養学部というのが4年のリベラルアーツの課程で、その上がプロフェッショナルスクールの課程です。
リベラルアーツとはこのように古い概念ですから、そのまま現代に生かすというのは難しいわけで、その意味で現代版リベラルアーツというのをどのように考えたらいいかということが重要な問題です。私の個人的な解釈でありますが、もともとローマ時代ですから、奴隷社会の中で、奴隷でない自由人の学芸という意味がリベラルアーツという言葉には含まれている。奴隷のための技術ではない。だから、論理学がはいってくる。では、現代は奴隷社会などではないから、「リベラル」という言葉自体が意味を成さないのではないかとお考えかもしれません。しかし実は、現代は精神的な意味での奴隷社会と言っていい状況を呈しているのではないでしょうか。では、現代における奴隷とは何か。現代の奴隷とは、自分になりきれない、自由な可能性としての自分から逃げてしまうということに象徴される人の精神構造を言い当てているのだと思います。エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』などはその問題をテーマにしている。そういう意味で、現代は奴隷に満ち溢れている社会だといえるかもしれません。先ほど話したリーダーシップをとっているとか、未来社会を創造していくということまで考えると、リベラルアーツの一番基本的なところは、自分になる、自分から逃げない、自分探し、自己確立、自己表現、自己実現だと思います。その意味で教養というのは、アクセサリー(ディレッタント)としてのそれではなく、「よりよく生きる」ための必須要素ということで、生き方そのものということが出来ると思います。それから、20世紀前半の哲学者であるオルテガ・イ・ガセットの口調を模して言うならば、人の知性の統一体を維持するものがリベラルアーツとしての教養で、これがないと人は先端的知識を深めれば深めるほど破片的専門人に成り下がる。昭和40年代に大学紛争で学生達がいみじくも指摘した「専門馬鹿」ということになりかねない。まさに、知のインテグレーションという役割がリベラルアーツの要素としては大きいのではないか。そしてそれは、最終的には人の価値観、世界観、死生観を形成するものだと思います。それを大学教育の中にどういうふうにきちんと入れ込んでいくかということだと思います。 さて次に、「プラクティカルなリベラルアーツ」をどのように解釈したらよいか、ということです。私の解釈はリベラルアーツ教育の場合、一つの流れとして「グレート・
ブックス運動」というのがシカゴ大学などであり、それは古典を徹底的に読み、古典の中にある英知といったものを現代に生かすというタイプのリベラルアーツである。プラクティカルなリベラルアーツは多分そうではない。そういう方法論ではなく、むしろ、「虚学」というよりは「実学」であり、「座学」的ではなく「行動・実践学」的であることが、一つ特徴として言えるのではないか。もう一つは、21世紀の社会というのは、昔のリベラルアーツの時代の知的な人の共通の知性より、はるかに深い専門的な知識を要求されるような時代になってきている。非常に深くかつ多様な分野・領域で、自分の生き方に直接役立てていくことを要求される時代である。そういう意味では、プラクティカルなというのは、プロフェッショナルな世界、21世紀を生きていくためのプロフェッショナルな世界における教養を意識するものが特徴的にあるということですね。私的にいえば、21世紀のリベラルアーツという言い方をすれば、それがすなわちプラクティカルなリベラルアーツのことであると思っています。そしてそれは、古典に帰れ、ではなく、現代に生きていく現場に重きを置いて、実践的、行動的な手法とプロセスを活用して、知のインテグレーションを習得していくタイプのリベラルアーツであると言いたい。
つぎに、リベラルアーツと専門教育の関係について述べてみたいと思います。
従来の日本の大学においては、1・2年で教養教育があり、3・4年で専門をやるという、いわば専門教育をする前提としての教養教育であった。専門対教養のバランス論に立った議論がよく行われていましたが、リベラルアーツ教育と専門教育の関係とは、やはり専門教育がリベラルアーツを意識した専門教育である必要がある。どういうことかというと、専門教育はある程度深く掘り下げていかなければいけない、そういう知識を教育しなければいけないが、それが他の分野との関係を意識しない専門のための専門という感じになってしまっていると、先ほどのような断片的で排他的な小世界を作り上げることになるので、その意味で全体性、統一性ということを常に意識した専門教育をする必要がある。それと同時に、リベラルアーツとの相互関係が工夫されなければならない。そういう意味で、リベラルアーツ教育は専門教育の基礎ともなるが、専門教育はより包括的なリベラルアーツ教育の部分を構成するという、相互に「入れ子」のような関係にあると言えます。
6.コースとカリキュラム
続いて、コースとカリキュラムについてですが、これはこれからこの部会で議論をしていくことなので私から最初にあまり枠をはめることはするべきではないし、現在の学部を構成している教員の方の人的構成というものをきちんと認識しているわけではありませんので、深入りはしないことにします。ただ、概念的な意味で少し私自身の考えを述べたいと思います。
一つは、コースは教員の現住所ではない。これが大前提です。「研究院」が所在地となる。
「研究院」についての構造等は、教員の方々の意見を反映させる形で別途考えなければなりません。教育に関していえば、“学生のための”という視点で考えていただきたい。コースはカリキュラム上のカテゴリー(分類)と位置づけるべきだと考えます。コースを縦割りの研究分野の排他的世界、いわゆる「蛸壺」にしない。これは大前提。学部があり学科があり、あるいはコースがあり専攻があるという形で細分化していくと昔ながらの帝国大学時代と変わらない。学者を養成するならそれでもいいかもしれないが、そうではないので、学生(学習者)がどれだけ学習効果をあげて、自分の将来の生き方にどう繋がっていくかを考えてコースをつくっていく必要があるわけです。そういう意味からいうとコースに定員を定める必要は必ずしもない。これは、コースの集団が多すぎて教室からはみ出してしまうという場合には考えなければいけないが、従来型の学部、学科の定員と同じ発想をコースにも適用するというのは、本末転倒だと思います。それからもう一つは、改革案の中にあって非常にいいと思うのですが、リベラルアーツ的な自己のテーマを決め、自分自身を追求するという意味からいうと、メジャーとマイナーを活用することによって本当の意味でのリベラルアーツができるのではないか。ダブル・メジャーあるいはデュアル・メジャーという形のものも考えられるわけですから、これをうまく使えるのではないかと思います。それから、コース制というと学部とか学科とか縦割りのことを考えて壁が厚い感じがするんですが、例えば慶應(SFC)では「クラスター制」といいまして、ぶどうの房みたいなものをクラスターというんですが、たくさんの専門科目をある基準でもって分類して学生の履修の際の目安を示すということをやっています。学生に強制的にどこかのクラスターに入れというのではなく、学生が自分でテーマを選び、4年間で学習する。そういう意味でのクラスター制である。自分自身のクラスターをつくる。だから、自分はこのクラスターからこの科目を取り、こちらのクラスターからはこの科目を選択するというように、クラスターを横断的に選択することもまったく自由である。そういう柔軟性があってもいいのではないか。そのように考えると、「コース長」というネーミングは、「蛸壺」的な縦割りの壁が厚い感じがするので、「コーディネーター役」くらいやわらか
いものでもよいのではないか。学生側からみると「カリキュラム主任」といったネーミングがいいのではないかと思っています。いずれにしろ、学生の自主的選択の幅をできるだけ広げる方向で、「履修モデル」あるいは「ガイドライン」としての「コース」を考えてみてもよいのではないか。日本の大学改革の典型的な方向としては、学生の自主選択の幅を設ける動きが大きなトレンドとしてある。2003年11月にこの分野の本格的な研究書として出版された『大学教育学』(京都大学高等教育研究開発推進センター)の「大学カリキュラム論」でもそのことについて論じている。カリキュラム上で自主選択を促し、学生が自分の学習の型を作るトレーニングをする。はじめから枠にはめてしまうと、学生にとって貴重な自己形成の機会を逃してしまうので、狭いコースに囲い込み必修科目を押しつけてしまうことはしないほうがよいだろうとしている。その意味で、従来型のコースについても変えてきている大学が増えている。ハーバードでも70年代にコア・カリキュラムを導入しましたが、その場合にもそういう弊害がでないようにしている。
コース、クラスターの分類も、概念のレベルだけで語るのもなんですが、横浜市立大学じゃなければできない、成功しないことは何かということを考えてみてはどうかと思います。
一つは「横浜」というブランドです。それは何かというと、まず国際性―文明開化の時代から横浜が国際的な面で一番すすんでいたという、そのイメージを活用する。つぎは先端性−明治時代以来、日本の社会現象の最先端の多くは横浜から起こってきた。そういう意味で先端性を伝統として横浜は持っている。横浜市立大学でも先端性、先進性というブランドを生かすことをやるべきだ。産業・文化−横浜の産業と文化という伝統は、市立大学の大学づくりに生かしていきたい。そういう意味でのポジショニングを考えていく必要がある。それから二つ目は「市立」という特典ですね。横浜市が設置者であるという特典、私立大学ではどう逆立ちしてもこの特典は利用できない。市立大学が持っている圧倒的なアドバンテイジなので、行政との連携などは独壇場だと思います。もう一つは、都市型の社会、コミュニティーということです。こういうところに立地している、立地環境もいいと思います。ただ、「横浜」というポジショニングだけを前提に新生市立大学のアイデンティティーを構築すればいいということではなくて、同時に学生や社会のニーズに立脚するというのが大事で、それに大学がうまく対応していくことが大事である。もう一つは、限られた資源(人的・物的・財政的)を最大活用することが大前提である。その意味では、戦略性と重点的投資をどこにするかということは非常に大事である。資源を考えるとき、学部は3学部をあわせた新しいコース、カリキュラムの検討ですが、資源はいろいろなところにある。隣の学部である医学部との連携を考えれば、有効な資源を引っ張り込むことになるので考えてみてもいいのではないか。外部資源の活用も視野にいれて考えればもう少し可能性が広がるのではないでしょうか。
7.パラダイムの転換とオンリーワンの大学を求めて
今まで私がお話したことは従来の日本の大学世界で常識的に考えてきたこととは違うわけですが、1990年にSFCを立ち上げたときの経験がベースになっております。その後いろいろな大学での講演やそれをベースとした様々な議論をふまえて、それなりの確信を持って今回の新しい考え方の提示をしてきたわけです。そして最終的には「パラダイムの変換」と「オンリーワン」ということをいいたいのです。大学の序列というのは、ずっと戦前からできあがっているわけで、旧帝大や、私学でいうと慶應・早稲田というところをトップにして、入り口のところは偏差値で序列ができあがり、出口はなんとなく評判というものができあがっている。世の中では、様々なランキングというもので序列を形成している。そういう序列というのは、一つの指標をもとにして作り上げたものであって、それがいわばハロー効果で全体の評価にまで拡大されてしまっているというわけです。そういった金縛りから抜け出して我が道を行くというやり方を、日本の大学はそれぞれがしていかなければだめなんだと思います。そういう意味で東大、旧帝大モデルから脱却しようと言うのが主張です。旧帝大のモデルである狭い専門の縦割り構造をやめよう。学生の自己編成の能力を信じよう。このためには、授業をするだけではなくて、学習支援というもののしかけをきちんとつくっていくことが必要です。個性化・ユニークさを競う時代になっているので序列の中の第何位か、4年生大学の中の何番かという強迫観念から脱却し、オンリーワンを目指すということをやったほうがいい。
護送船団の横並びではなく、日本の大学の中の横浜市立大学モデルというものをつくりたい、つくれたらいいという意気込みでやっていきたいと私は考えています。ぜひ皆様方と一緒にすばらしい新生横浜市立大学を創造して行きたいと思っておりますので、ご協力、ご尽力をお願い申し上げます。