==> 国立大学独立行政法人化の諸問題
しかし、評価とは本来、対象とするものの目的達成の方途であるから、研究においては研究の前進のためにあるべきである。しかし「経済的効率性」がいわれるとき、バイアスがかかることは避けられない。特に今日では国際競争の中でわが国の産業界ないし独占資本が生き残るための焦眉の方策として、科学技術を動員しようとする手段となっている。それは明確に経済政策、産業政策であって、学術研究政策ではないのである。それがどのようなゆがみを大学や研究にもたらすものであるかを明らかにする必要がある。
しかし、問題はさらに広く深い。今日、研究評価がこのように関心を呼んでいることは、客観的に見てそれだけ大学や研究が広く国民一般の広い関心になってきたからに他ならない。大学や研究の、国民・社会との関係・あり方を考え、その立場から研究評価の問題が検討されなければならないだろう。
大学審の答申「大学教育の改善について」(91年2月)で大学の自己評価がいわれてから、総理大臣決定として「国の研究開発全般に共通する評価の実施方法の在り方についての大綱的指針」(97年8月)、学術審の建議「学術研究における評価の在り方について」(97年12月)でいわれ、大学審答申「21世紀の大学像と今後の改革方策について」(98年10月)、学術審答申「科学技術創造立国を目指す我が国の学術研究の総合的推進について」(99年6月)では第三者評価、外部評価などが強調されている。
この9月には大学の自己点検評価の結果の公表義務と、第三者評価を受けることの努力義務などが大学設置基準に規定された。
こうした中でいわれている研究評価をその目的によって分類すると次のようになろう。
①研究者個人の評価 昇格、処遇、業績、活性度など任期制に伴う評価など
②研究費の査定のための評価 まとまる見込みはあるか、研究の意義など 科研費
③産学協同の評価単にまとまるだけでなく、産業上の意義がある
④ベンチャーのための評価企業化できるか
⑤経済や政治への貢献についての評価
⑥大学、学科等の評価 機関としてのプロダクトや学界でどれだけ活躍しているか
⑦学術進展のための評価今後の研究をリードする内容か、先行研究として
⑧国民への開示、啓蒙として アカウンタビリティー、コントロールとして
わが国の学術政策は大きくわけて、文部省関係と通産省・科学技術庁関係に大別できる。これはいいかえれば学術政策と科学技術政策である。前者は大学に関連し、後者は産業・経済に関係する。また前者は人文・社会科学を含むが、後者は技術中心である。(本報告では、この両者を含んで学術研究政策ということとする。)その体制は概ね次のようである。
文部省 高等教育局 大学審議会
学術国際局 学術審議会
日本学術会議
経済企画庁 経済審議会
科学技術庁 科学技術会議(政策委員会)
21世紀の社会と科学技術を考える懇談会
総合科学技術会議(2001年発足)の準備
通産・郵政・農水など
総合研究機構(NIRA)など
これらをバックアップし、尻をたたくものとして
経済同友会
経団連 21世紀政策研究所(1996創立) など
こうした方針を学界に浸透させる仕組みとして、学会が機能している分野もある。工学関係では企業人も会員になっている。また、政府の審議会に大学教員を委員とする、特に当該政策担当の官僚を大学教員とし、それをさらに審議会委員として活動させるという手法が近年広がっている。こうして事務局(担当省庁)主導型の審議会運営が強まっている。
これらはそれぞれ報告書や答申を出しているが、それを通してみるとこれらの科学技術政策は日本経済の生き残りというあせりがあり、そのために学術・大学を総動員しようとするものであり、現代における総動員政策というべきものである。もちろん省庁間の対抗関係がある。特に文部省は、行革によって科学技術庁と統合されるが、その中でのイニシャチーブを確保する意図もあろう。こうした政策のなかで研究評価は、要としての位置を与えられている。
しかし評価という目的や思惑が先行して、その方法が追いつかない。実現可能性が検討されていない、評価の方法の開発や専門家の養成が求められている段階である。評価の「専門家」というものがいるのかどうかは大きな問題である。今どうしたらいいかの見通しがあるのではなく、必要性から追い立てられているのである。
①研究者個人の評価 昇格、処遇、業績、活性度など任期制に伴う評価など
論文等の業績だけでなく、学界・社会における活動なども考慮されるが、学問分野の違いやその分野の研究状況によって条件が異なることをどうしたらいいか、達成した業績か研究者としての能力か、発表機関による重みの区別など未解決の問題が多い。研究成果の点数化や引用数の重視など機械的な手法がとられることが多い。
②研究費の査定のための評価 まとまる見込みはあるか、研究の意義など 科研費
審査委員との関係や審査委員の専門などが審査にあたって影響を受けるのではないかということの疑念(ひいきや疎外などの可能性)がある。書かれた文書による審査なので書き方などが影響するなど。申請する側としては学問的意義よりもまとまりやすいテーマを申請しやすい。
③産学協同の評価 単にまとまるだけでなく、産業上の意義があるか
研究自体の評価に加えて、産業化の可能性という未知のファクターが入ることの難しさがある。技術的可能性、量産、コストなど、特に特許取得が強調されている。
これは実用性の有無とは区別されていることに注意すべきである。いかに実用性が高くとも、企業の製品としての意味、すなわち商品として売れて利益が得られることが評価の大前提にある。つまり実用性があっても商品価値がなければ評価されない。
④ベンチャーのための評価 企業化できるか
研究自体の評価に加えて、産業化・企業化の可能性という未知のファクターが入ることの難しさがある。しかも世間や企業をしらない大学の教員が多い。これを理由にして、企業人など「実務経験」のある者を大学の教員に迎えようとする傾向がある。
マイクロソフトのようなアメリカンドリームをねらう考えであるが、大資本にとっては、ベンチャーがうまくいけば使い、うまくいかなければ勝手につぶれればよい。
⑤経済や政治への貢献についての評価
国際経済や総合政策などの学部が設置されているが、従来の社会科学とは異なって、現在の経済界や政府への関与ないし寄与を直接の目的とする研究が広がっている。総合政策大学院大学、慶応SFCなど。社会科学・人文科学分野ではこのような「政策科学」化が進行する。こうした状況をもとに、現在、各種審議会、政府や財界の委員会などに委員として委嘱するなど、人文・社会科学の研究者を体制側に組織する動きが進行している。
⑥大学、機関等の評価 機関としてのプロダクトや機能が十分か、メンバーが学界でどれだけ活躍しているか
現在の大学の研究評価は、自己点検評価や白書の取り組みなど教員個人の研究の総和として示すにとどまり、機関としての特色を描くことに成功していない。大学基準協会の要求も基本的にこのレベルから越えていない。
ここでは問題が山積している。独立行政法人など行政的評価、受験情報、企業の側のランク付けなど民間の評価、第三者評価機関の設置など。センターオブエクセレンス(COE)という考え方は政策的位置づけもあるが評価でもある。
今後の動向としては、③、④のような成果が少なければプロダクトとしては評価されなくなる可能性がある。
⑦学術進展のための評価 今後の研究をリードする内容か、先行研究として
学問の内容・研究に精通していないと評価できない。学会誌の審査、学会の表彰、研究レビューや文献目録の作成などがある。学閥や産業界、政治など学問の外部の影響を受けやすい。
91年の大学設置基準等の改正で、学問分野の基本的分類を廃止した。これは学問の基本的構成についての判断を放棄したものというべきだ。
⑧国民への開示普及・啓蒙として アカウンタビリティー、コントロールとして
現在は国民の学術研究への関心が低い。明治初期の啓蒙期までは国民の科学への関心は高かった。しかしその後、科学は国家や産業界が独占した。大正期以降、知識人の間での関心は高まったが、一般大衆向けには「子供の科学」のようにこうした立場からの啓蒙にとどまっている。戦時下の飛行機、戦後の原発。この他、産業、資本の側からの普及・宣伝・コマーシャリズム、国威発揚の宣伝(宇宙開発など)
納税者、主権者としての科学技術への関心はまだそれほど高くない。
また真に科学的教養を身につける立場からの評価は十分でない。国民にとってどのような科学的教養が必要かのコンセンサスはできていない。
政府・財界の研究評価論において、キーワードとなっているのは、「経済的効率性」である。無駄遣いをしないということは当然のことであり、特に税金に関しては強調されるべきである。しかし「経済的効率性」の実態は、産業界の needs にどう対応しているか、それが seeds になるかどうか、すなわち産業化できるかどうかという点からの研究成果に対する評価である。
これは当該研究に直接関係する予算、施設・設備は考慮の枠にはいるが、基盤的な条件整備や準備は入らなくなる。教育・研究者の労働条件や養成については直接の考慮に入らず、研究要員でさえもパートでいいという考えである。しかも短期間での成果を要求するものであって、研究を発展させる立場からの評価ではない。独立行政法人では企業会計原則の導入がいわれるなど問題が端的に現れている。
結局は経済面からの評価で、産業化やベンチャー・ビジネスを促進するための評価論といえる。投下資本の回収と利益をあげることを目的としているが、経済情勢の変化は前もって対応できない。従って計画段階で「経済的効率性」が見込まれても、実施する中での経済情勢等の変化によっては「経済的効率性」が認められなくなる可能性がある。こうしたとき研究費を負担する側では研究上のリスクを負うのではなく、研究費を打ち切ることになりかねない。
こうした評価論は資本の論理によって強制されている。国の政策面でも、資本の要求によって財政を支出するために、同様の論理が要求されている。それに加えて、福祉の見直し(自己責任)が強調されている。
しかし、社会的有用性があっても、「経済的効率性」が見込まれない分野がある。地球環境の問題、貧困の根絶の問題、核兵器の廃絶の問題など、資本主義的な短期の「経済的効率性」ではカバーできないことは明らかである。これらは政治の問題、すなわち企業等に対して義務づけたり、社会的措置として追求されるべき課題でもある。
今日の「経済的効率性」論は、研究分野におけるコマーシャリズム(商業主義)の一つの典型である。これに対する批判が進められなければならない。
「経済的効率性」もそうだが、全体として研究に対してプラグマチックなとらえかたがつよい。研究のうえでも、「役に立つ」「問題が切れる」といって、新しい用語を安易に作り出して議論する傾向がある。これは概念の内容的吟味を十分にしないことであり、それまでの議論との整合性の検討を避けることになっている。また全体の枠組み、理論的全体像を放棄して、部分的な合理性だけを取り上げる傾向がある。
この結果は学問がそれまでの到達を踏まえて前進するというのではなく、学説の交替・変遷に陥ることである。研究者の問題としては、目先の変わった向こう受けのする「学説」を提出することが目的となりかねない。研究者としては、本が売れ、社会的に注目されれば「経済的効率性」が高いということになるのだろう。
自分の頭で考えない傾向は、同時に海外の新しい議論に飛びつくことにつながる。わが国の学問が明治以来、海外からの輸入と移植を軸にしていたこともあり、この傾向は根深い。政治や経済のアメリカ依存のもとで、学術においてもアメリカ依存が強く、いかに早くアメリカの動向をキャッチするか、アメリカの研究者とコンタクトをとるかが学者としての生命であるといった認識が、一部に根強く存在する。
1960年代以降、「知識爆発」論の立場から個別の研究内容をフォローしきれないという研究上の悲観主義が台頭している。この立場は、個々の研究内容をすべてフォローしきれないので、それらの内容を処理できる方法論を身につけることが重要だという。特に学問のトレーニングとして、学問的方法を重視する立場になって現れている。一時、コンピュータの登場によってすべての情報がデータベース化できるとし、人間の持っているすべての知識、情報がコンピュータの力によって処理できるかのような主張がされたが、近年では、データベースの構築の難しさ、データ検索の問題がいろいろあることがわかり、この主張は力を失っている。(データベースそのものの否定ではない)
方法論主義は今日でも依然として影響が強い。影響というよりも、先の「経済的効率性」の視点もあろうが、そのような方法論があれば便利だという願望というべきかもしれない。方法論の問題は、研究の総括として事実に基づいてまとめることは大切であるが、ここで方法論主義といっているものは、そのような総括ではなく、いくつかの研究の一面だけを抜き出して、おおくは類推によって一つの「方法」を「定式化」するのである。そのような定式は事実によって破綻する。従ってある「理論」が華々しく登場しても、数年も経たずしてその「魅力」はうせてしまうのである。構造主義やパラダイム論などはその典型であろう。
それを受け止める側の研究者やマスコミなどは、一つの「理論」が消えると次の新しい「理論」に飛びつくという、付和雷同的な、はっきり言えば流行を追うミーハー主義に深く侵されている。このようなジャーナリスティックな、目先の新しさを追う傾向はわが国の学界に根深い。
こうした傾向が広がる背景には、マルクス主義と一線を画したいという意識がある。ポストモダンの影響もあるが、マルクス主義批判は一面でグランドセオリー批判ないし否定として現れている。自分たちのこれまでのグランドセオリーが様々な破綻を引き起こしている中で、みずからのグランドセオリー形成能力に対して自信を失っていることの告白である。グランドセオリーの形成を放棄することは、対象の全体像の認識の放棄であり、世界観の形成の放棄になっている。これに対して方法論主義は認識論に走っていることであるが、その認識論の立場は全体像認識の放棄という意味で基本的に不可知論なのである。
科学の研究は平和を守り、民主主義を発展させ、国民(人類)の生活の安定・福祉の向上と権利の保障、持続的発展を保障するもの。同時に基礎研究も重要である。人間性の解明、多文化の尊重など。当面する社会や世界の問題に積極的に取り組む。
科学者、研究者の役割と責任をはたす。
原子力研究の自主・民主・公開の原則
巨大科学プロジェクトの場合天文学では国民への普及・報告が積極的
宇宙開発はやや異なる姿勢ではないか。
素粒子論などの、研究室の民主的運営、理論的考察と実験による検証の関係
地団研や考古学の国民(住民)参加 地域の文化・歴史に対する関心
モノがでるというわかりやすさ、日本の社会の中での論点、関心が強い。
歴史学 戦前の反省に立って戦後の取り組みが進められている など。
研究者主導か、国家主導か国民をどこまで視野に入れているかが重要なポイントとなろう。研究の諸条件・研究活動は国民の労働によって支えられているのであって、それ故にこそ国民に対する研究者の責任を自覚することが必要なのである。科学が国民に理解されることを、科学自体の大きな目標としなければ国民の科学的水準は低くとどまり、その結果、科学は国民に支持されなくなるだろう。また次の世代の研究者を育てることも成功しないことになる。したがって普及活動に積極的な働き手がいるかどうかは欠かせない。
総合化の取り組みは、われわれの側でも十分成功しているとはいえないというべきであろう。70年代など科学論がはやったときがあったが、全体をとらえる枠組みがうまくできていないといわざるを得ない。学術研究の全体像をとらえること、現代という時代や日本の社会、世界の直面している問題の全体の見通しを持つことが、研究にとっても、国民の科学理解にとっても重要になっている。
また研究体制の問題として、学会・大学などと自主的研究組織の関係がうまくとらえられていないというべきだろう。学会の性格・役割の現状を分析し、公的な性格・役割を果たさせる方向が必要である。
理科離れ、科学技術離れがいわれているが、国民個々人の主観はともかく、客観的にはかつてなく大学や学術と国民の関係は近くなっている。日常の生活の中には科学技術の成果があふれているし、大きな影響を与えている。個人の生活ばかりでなく、市民の生活としても同様である。中小企業にとっても、最新の科学技術を利用することは切実な問題であるが、どういう援助を受けたらいいかわからず、つてもないままにすぎているというのが現状ではないだろうか。
他方、この結果としても、科学技術の否定的影響も大きく広がっている。酸性雨や温暖化などの環境問題、遺伝子組み替え食品、原子力や核問題など、市民として生活をしていくためにも、無関心ではいられないのである。今日、民主主義を高め、平和を守るということを尊重しない政治が横行しているが、民主主義や平和は政策的な選択の対象ではなく、当然に守るべき社会的な原理として、学問的にも解明されなければならない。人文・社会科学を含め、科学を普及することは国民の智恵を高めることであり、それは国民の自覚を高めることになる。主権者として振る舞うためには科学の知識は欠かせない。
今日、不十分さはあるが、わが国では教育は学問の成果をふまえて行われるという原則が確立している。これが大学大衆化、科学技術の大衆化の本質である。このことは特別のトレーニングなしでも、学問内容がおおむね理解できるようにすることが求められていることだ。
大正期から戦後にかけてわが国と科学の民主化に生涯を捧げた小倉金之助は、科学の大衆化から自らの実践をはじめ、戦時下には科学的精神の普及を目標としてファッシズムと果敢に闘争した。戦後は科学者と国民大衆の交流をすすめた。こうした小倉の実践を通してみると、この間、科学ないし科学者と国民の距離が縮まってきていることがわかる。小倉の時期にはなお、科学者と国民の間の距離があったが、その後の運動の中で、また科学者の立場も変わり、いまは科学者も国民の一員として活動している。
これとともに学問それ自体も変化が求められている。これまでの学問は特別な訓練を経た人だけが正確に理解することができ、そのような人だけが科学者、技術者といわれ、それを使うことが許された。しかし教育の普及・科学技術の普及の結果、多くの人が学問内容を理解することが必要になっている。このために学問の叙述の仕方を変えることが求められている。
多くの人々の関心は、現在の問題の解決にある。学問もそこから問題を説き起こす必要がある。いま直面している問題に対してこの学問がなにをなし得るかを明確に示す必要がある。したがって学問の系統性ということも、抽象的な原理、原則から説き起こし、次第に具体的な問題に及ぶというこれまでの考え方とは大きく変えていく必要がある。大学の教育もこうした観点から改善をはかる必要がある。
科学の二面性を考えると、学問の自由・自治、自律性と同時に軍隊のシビリアン・コントロールのような仕組みが必要ではないか。批判勢力としての日科、労働組合などの存在は意義がある。非専門家、市民の参加、監視が重要である。予算のお手盛り・官僚の天下りなどの防止が必要である。
学術研究の政治・経済・社会的側面が国民の前に明らかにされていない。今日、学術政策、経済政策、大学政策が結びついている。その全体がカバーできる体制が必要である。大学教員や研究者としても、この全体を見渡すことが必要である。とりあえずその全体像を取り上げる本が必要である。
いまの産業が大資本に支配されているという事実はあるが、産業そのものをなくすことはできない以上、文字の意味の通りの「産学協同」自体は否定すべきではない。問題は、専ら大資本の利益のためにのみ奉仕するやり方ではなく、社会全体に役立つやり方で進めることだ。この点から大企業の社会的責任を果たさせることは重要である。
科学技術の普及の手段として工場など各種の企業の介在(参加)は必要である。知的成果としての本の出版だけでなく、モノとして形を与え多くの人々に利用してもらえることも視野に入れる必要がある。(企業の儲け仕事として位置づけない)
「官」の役割は、特定勢力の利害を代表するのではなく、本来の意味で社会の各分野・グループ等の調整者・コーディネイターとなるべきであろう。その意味で「官」ということばは、民主主義に反する用語であり、批判が必要である。地方自治体の場合も、同様である。
ユネスコの高等教育宣言の中で、world of work (第7条)をどう訳すかの問題があった。これは「労働の世界」としたが、もっと平たく「仕事の世界」といってもいいのではないか。この work は職業としての仕事だけでなく、報酬や利益を受け取らない仕事をも含む。何かものを作り出す仕事、社会的サービスを行う仕事(第三次産業、公務労働、NGO、NPO、ボランティアを含む)すべてが含まれよう。同条には、「職業の創出者となる」という文言もある。
こうした点をふまえると大企業だけでなく、中小企業、個人経営、商業、農業など各種産業や、職業団体、組合、同業組合、商店会などの各種団体、市民団体やNGO、NPO、個人、教育、文化、マスコミ、福祉、障害者、医療、地域生活、家庭、政治、自治体等の様々な分野との連携が必要である。また国際協力、国際問題等の取り組みも重要である。これらを運動の中でも積極的に推進する必要がある。
これはまず、現実の問題に取り組むということ自体が多くの学問領域の協力、協同を求める。国内的問題、国際的問題の多くはこうした取り組みを要求している。
学問自体にとっても、たとえば歴史学でコンピュータや様々な物質等の化学分析が必要となっているように、他領域ないし学際的な取り組みに支えられているようになっている。世界の全体像を描く作業は当然、多領域の学問の支えがなければならない。
多文化のもとでの研究、協力体制が進めば、科学者としても総合的理解は様々な問題で求められる。科学者、研究者として、自分の専門とは離れるとしても、社会認識、政治認識、国際認識、他の文化に対する理解と共感などを健全に備えることが必要である。いわゆる「専門バカ」ではすまされないのである。
日本の社会において女性の科学へのアクセス・参加を改善することは急務である。日本の社会の中にある、女性らしさや性役割意識の改善、女性の能力に対する蔑視の克服など、法的社会的地位に関しても、本来の母性保護をより強めつつ、教育や社会参加の平等が確保され、その一環として科学へのアクセス・参加の平等が保障されなければならないだろう。
この他、経済的条件や国籍、民族、障害の有無、居住地域などによってアクセスや参加が制限されないようにすることが重要である。これはまず教育機会の公平によって、ついで職業選択や社会活動の保障によって、実現されるべきであろう。
わが国の国際的責任・歴史的責任として、国際的協力・支援を拡大することが必要である。特に旧植民地の諸国・地域、戦場になったアジア・太平洋の国・地域に対して積極的な取り組みが必要である。これは国の責任としても、大学などの機関が自主的に行う課題としても、意識的に取り組みを強化すべきである。これは日本国内にいる朝鮮人、中国人などに対しても日本国籍の有無を問わず、その他の外国人に関しても、同様に考えられるべきであろう。
国民が科学技術や学術の意義を理解するような取り組みが重要である。この点で、サイエンス・ライターやマスコミ関係者の役割は重要である。日本のマスコミは科学技術、学問に対する関心・理解が十分ではないのではないか。もちろん学会や学者・研究者自身が自らの仕事の一部として普及にもっと熱心にならなければならないし、そのための技量を高めなければならない。
ユネスコの宣言等の立場に立ち、学術文化の発展と、平和、人類の福祉の向上、人権と民主主義、持続的開発、文化の多様な発展をめざして行われるべきである。
研究評価は自己評価あるいは第3者評価として行われよう。いつ、どのような形で行うかの問題はあるが、研究評価自体は必要で、重要な意義を持つものというべきではないだろうか。
同時に、研究評価を人事考課や勤務評定と区別して考えることが必要である。今は評価ということを不当に拡大しているのではないだろうか。
研究評価は次のような視点で行われる必要がある。
評価に当たって、産業化の視点からの評価は当然あり得るが、以上の視点を欠落させてはならない。
研究評価にあたっての留意点として次の諸点が重要ではないだろうか。
狭い意味での研究「成果」だけでなく、学術としての蓄積を重視する。従って評価はその研究に携わる研究者またはその分野の専門家が中心となるべきである。機関の評価としてはそこに属する研究者個人の研究の総和だけではなく、機関自体の機能と役割を評価する。このためには大学などの機関の役割について十分な検討・理解が必要である。ユネスコの視点から十分に学ぶ必要がある。
第3者による評価の場合、評価者の名前、評価の手順等については公表される必要がある。評価される当事者を励まし、今後の展望や研究のヒントを与えるものであり、あるいは当事者の納得のいくものとなるべきである。打撃的、攻撃的評価ではならない。評価に対して、本人ないし当該機関、あるいは評価が公開された場合は第3者からの異議申し立てや批判等が許され、それがまじめに取り扱われ、評価者の見解が示されあるいは評価自体が再検討され、必要な場合には名誉回復を含む手順が保障されるべきである。これは第3者評価を慎重に行い、客観性を保障させるために必要な制度・手続きである。自己評価に対する第3者の評価の場合も同様である。
これは留意点というべきかもしれないが、特に独立した項目としてのべる。
研究評価の評価基準は、その研究分野の特質、研究状況、研究環境などによって左右される。一律の方法では片づかないだろう。評価者の学識、研究分野の専門性という閉鎖性や総合的視点の弱さによっても大きな影響を受ける。
また評価者の立場、人脈、ボスなどの力関係、学派などによって左右される。師弟関係、企業や資金、政治などさまざまな動機がある。特に日本社会の批判精神の弱さは、評価の客観性を保障する上での弱点となろう。利害、迎合を伴った評価、我田引水になりやすい。
他方、研究評価のこうしたゆがみや、研究評価を受けるがわからすればそれによる不利益も予想ないしは危惧される中で、研究評価にたいする否定的意見もある。すなわち、研究は地道にやっていればわかってもらえる、研究は宣伝するものではないという意見も強い。また研究の自由が制限されるのではないかという危惧もある。しかし、以上述べた点からすれば、研究評価は研究者個人の力量判定ではないのであり、これまでの研究実績に対しての国民に対するアカウンタビリティーとして求められるものである。
こうした問題をかかえながら、研究評価を実施することは、今後かなり長期にわたる試行とその実績の積み上げが必要だろう。どういう方式でそれが可能になるか、一つの方法でいいか、分野などによって異なるやり方が必要かなど、今の段階で明らかにすることはできないが、多くの研究者が納得のいく原則や方式を探り当てていかなければならないだろう。
(完)