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北海道大学の建学の精神と教育思想の歴史

藤田正一(北海道大学)

Date: Wed, 13 Dec 2000 20:27:51 +0900
From: "藤田正一" 
To: hu-members

北大教職員各位殿

 獣医学部の藤田です。11月8日の部局長会議の際、丹保総長より、「年があけた
ら、以前に獣医学研究科長からお話があった、北海道大学憲章といったことについて
も検討して行きましょう。」という発言があり、私の提案を記憶にとどめておいてい
ただけたことにびっくりし、それを取り上げていただけることを大変嬉しく思いまし
た。同時に、以前に国立大学憲章の案文を提案し、北海道大学憲章も我々の手で作り
ましょうと提案しておきながら、言い出しっぺの私が、未だに原案を提案できないで
、御賛同頂いた方には大変心苦しく思っております。皆様のお知恵を拝借し、立派な
憲章をつくりたいと思っております。是非御意見をおよせ下さい。

 実は、大学憲章提案以後、北海道大学憲章の原案を作るべく、北大の歴史を振り返
って、そこに通底する精神を探り、まとめる作業を少しはしておりました。北大の歴
史をひも解くと、札幌農学校こそ、我が国の大学教育における自由な民主主義教育の
発祥の地であったことが良く分かります。北大の歴史を以下のようにまとめてみまし
た。そこには、未来に生きる不易の価値観が北斗星のごとく輝いておりました。

 来る年は新しい世紀の始まりの年でもありますし、北海道大学にとっては、創
基125周年と言う節目の年でもあります。過去125年を振り返り、これからの10
0年を展望するに絶交の機会かと存じます。これから100年、設置形態がいかなる
形をとろうとも、決して変わることのないであろう、北海道大学のあるべき姿、教育
の理念と理想を、北海道大学憲章として、是非とも2001年度の早い期間までにまとめ
あげ、125周年祈念式典には世間に向かって宣言したいものです。

北海道大学の建学の精神と教育思想の歴史

 1870年北海道開拓次官に任ぜられた黒田清隆は、北海道の開拓の方針として、先進 国、とりわけフロンテイアの開拓に一日の長があるアメリカより開拓における新知識 と専門技術に精通する専門家の招聘、前途有為な少年少女の海外留学、そして、開拓 の任に当たる人材育成のための学校の設立を打ち出した。この時すでに黒田の目は世 界を見ていたのである。1871年には留学生を伴って、自らアメリカに渡り、アメリカ 農務省長官であったホーレスケプロンを開拓使顧問として招聘することに成功、同年 11月には、津田梅子ら5人の女子留学生をアメリカに派遣している。子供の教育に 当たるのは主に母親である。そのためにはまず女性を教育しなければならない。女子 留学生に先進的教育を受けさせ、帰国後、女子教育に貢献させたいと言うのが黒田の ねらいであった。この時代、官費で女子を海外留学に派遣させることは極めて異例の ことである。地に足のついた開拓の精神が伺われる。北海道大学の教育理念の一つ、 「国際性」は札幌農学校誕生以前に遡ることができる。  ケプロンの提言もあって、1872年には、開拓使仮学校が東京の増上寺に設立された 。この学校は1874年黒田次官が開拓使長官に任ぜられると、開拓使の東京出張所閉鎖 に伴い、1975年に札幌に移設され、札幌学校と改称した。札幌農学校の前身である。  開拓使次官となる以前、官軍の参謀として戊辰戦争を戦った黒田清隆は、五稜郭で 敵軍の将、榎本武揚を捕らえたが、維新の日本に枢要な人物であるとして、政府に彼 の命乞いを幾度となくくり返し、ついに、彼を釈放させることに成功している。若干 30歳でありながら、陸軍中将参議の地位にあり、相応の胆力を持った人物であった 。このような人物が、クラーク博士来日以前の札幌農学校の前身を準備し、存分に活 躍できる環境を提供したのである。  札幌にクラーク博士を伴って向かう玄武丸船上で、黒田はクラークに学生の徳育を 要請したが、聖書の使用を巡って激しい論争となった。後に黒田は、クラークの人物 を見極め、聖書の使用を黙認した。キリスト教的良心の教えは後の札幌農学校に育ま れた民主主義的教育思想に大きな影響を及ぼしたと言える。  1876年、札幌農学校の初代教頭ウイリアム・スミス・クラーク博士は、札幌農学校 の開校祝辞で、「長年の間、東洋の国々を暗雲のごとく包んで来た因習と身分制度の 暴政からの素晴らしい解放は、教育を受けようとする全ての学生達の胸に高邁なる大 志を抱かさずにはおかない。」と述べ、明治維新の士農工商の身分制度の廃止と封建 制度からの解放により、人々が平等と自由を獲得したことは実に素晴らしいことであ り、学生達の胸に大きな志を持たせるものであることを述べた。  クラーク博士は来札の10年程前、南北戦争の北軍の大統領リンカーンの呼び掛けに 応じて、自ら志願して、奴隷解放のために参戦した。南北戦争当時の北部アメリカは 独立宣言の精神が大いに発揚した時代であった。そしてその独立宣言には、自由、自 主独立の精神と、人間の平等が唱われている。アメリカ独立戦争を戦ったマサチュセ ッツ州出身のクラーク博士はこの独立宣言の精神的影響を強く受けていた。だからこ そ奴隷制と戦い、明治維新の身分制度の廃止を高く評価したのである。「自由は学問 と道徳の偉大な生みの親である」とはアメリカ独立宣言の起草者トーマスジェファソ ンの言であるが、クラーク博士もまた、「自由が教育を受ける学生の胸に大志を抱か せる」という意味の言葉を語り、教育を施す上で最も重要な学生の意欲(大志)は、 因習や階級制度からの束縛の無い自由な環境より生まれるものであることを指摘し、 維新の改革を評価した。博士はアメリカの独立宣言に象徴されるような民主主義を札 幌の地で、日本の教育に持ち込んだのである。また、青年に大志を抱かせたいと言う 博士の思いは、彼が8ヶ月の滞在の後、札幌を離れる時、「ボーイズ、ビー アンビ シャス」と言い残したことからも伺える。学生に意欲を持たせたいと言う思いは教育 者共通の思いである。  クラーク博士はまた、多くの細かな校則を排して、「紳士たれ」の一言を校則とし 、学生達の自律心、独立心を目覚めさせ、個の確立を促した。クラーク博士とその教 え子である米国人教師達は、よく学生と交わり、自らが学生達の模範となるように行 動した。学生の飲酒の習慣を止めさせるために、クラーク博士は自分の持って来た洋 酒を総べて流しに流してしまったと伝えられている。独立心、自律心を持った個の確 立を目指す自由な人間教育、これが北大の全人教育の基となった。明治31年発行の「 札幌農学校」は同校生徒の手による書であるが、名著として当時の多くの青年に読ま れた。その中で、札幌農学校の学生が目指すものは、自主独立と不撓不屈の精神であ るとしている。  クラーク博士が札幌農学校に蒔いた民主主義教育の種は、やがて彼の影響を強く受 けた内村鑑三、新渡戸稲造らにより育てられ、内村鑑三の平和主義、新渡戸稲造の自 由平等博愛の精神の源となった。内村鑑三は、自らの日清戦争肯定論を恥じて、いか なる攻撃にあおうとも生涯徹底した平和主義を貫いた。新渡戸稲造は「大平洋の橋と なりたい」と言う大志を国際連盟事務次長にまで登り詰めると言う形で実現し、傍ら 、私財を投げ打って、札幌市の貧しい人々の子弟のための学校を設立した。遠友夜学 校と名付けられたこの学校では北大生が無償で教鞭を取るばかりか、自分達のアルバ イト代で教科書を買い与えて教えていたのである。有島武郎もこの学校の先生として 教鞭を取り、遠友夜学校校歌を作詞している。この学校の校是は「リンカーンに学べ 」であった。南北戦争で奴隷解放を呼び掛け、「人民の、人民による、人民のための 政治」を高らかに宣言したアメリカのリンカーン大統領である。国家主義思想が大勢 をなし、太平洋戦争の軍靴が高鳴る時期に、民主主義の精神を強く主張した敵国の大 統領に学べを校是とした学校が北大の教官と学生の献身の下に存続していたのである 。遠友夜学校こそ、北大の教官と学生達が北大ではなし得なかった教育の理想の実践 の場所であった。昭和19年、軍事教練を課さない学校は学校とは認められないと言 うことで、廃校にされるまで、実に50年間の長きに渡って、北大生の良心に支えられ てこの学校は存続し、ついに平和主義を貫いて廃校となった。  この学校が存在した同じ50年の間に、北大は、政府の植民地政策に協力し、沢山の 北大卒業生が、満州の開拓と農業指導に携わっている。現地に赴いた人々は、現地の 農業に貢献したいと言う善意の人ばかりであっただろう。しかし、結果的には、当時 の日本の帝国主義的野心にあやつられることになってしまった。また、第二時世界大 戦においては、北大構内から沢山の北大生を戦地に送りだす学徒出陣を余儀無くされ た。大学における学問の自由と大学の自治が侵された暗い時代であった。  太平洋戦争が開戦されるや、北大生を常に暖かい目で見守っていた北大米国人教授 レーン博士と、博士と親交のあった北大生宮沢弘幸はスパイ容疑で特高警察から迫害 を受け、レーン博士は本国へ送還され、宮沢は監獄へ送られた。獄中で拷問により体 を壊し、戦後解放されるも、間もなく死亡した宮沢の名誉はまだ回復されていない。 保身のためか、この時代に、北大はあまりにも無力に沈黙を守った。北大のささやか な抵抗が遠友夜学校への献身であった。  北海道大学予科恵廸寮の寮生達も学徒出陣へと赴いたが、見送りの寮生達は軽快な リズムで作曲された明治45年度寮歌「都ぞ弥生」のテンポを、寮から札幌駅までの行 程で5番までの全歌詞をただ1回歌いきるように無理に引き延ばし、荘重な調べとし た。権威に物言えぬ弱者のささやかな抵抗であったのであろう。また、太平洋戦争末 期、後のA級戦犯東条英機総理大臣が北大農学部に置かれた大本営で北大予科生を相 手に演説を行った時に、演説に対する嘲笑とざわめきが予科生の中から起こり、総理 大臣がキッとなってざわめきの方を指差す事件があった。北大のリベラリズムは戦時 中も予科生の心の中に生きていた。しかし、表面的には北大は沈黙を守った。  一方で、北大の外では、クラーク博士の教えの流れをくむ人々が、国家主義、軍国 主義体制に対して勇敢に批判的な発言をくり返していた。内村鑑三と新渡戸稲造から 強い影響を受けた南原繁、矢内原忠雄、高木八尺ら東京大学経済学部および法学部の 教授達である。国家主義教育の主翼をになった東京大学にあって、迫害を受けながら も時代を越えた普遍的、客観的視点から、このような主張をなし得た彼等こそ、札幌 農学校の子と呼ばれるべきであろう。南原繁、矢内原忠雄は終戦後相次いで東京大学 の総長となった。また、明治末期より普通選挙や労働組合の公認を主唱し、日中戦争 、太平洋戦争反対の主張を続け、戦後、1952年に内閣総理大臣となった石橋湛山も青 年期に札幌農学校一期生大島正健の薫陶を受けた、自他ともに許すクラークの弟子で あった。  戦後の1952年5月26日、当時の東京大学総長 矢内原忠雄博士は「大学と社会」と 題した東京大学五月祭の挨拶で、「明治の初年において日本の大学教育に二つの大き な中心があって、一つは東京大学で、一つは札幌農学校でありました。この二つの学 校が、日本の教育における国家主義と民主主義という二大思想の源流を作ったもので ある。大ざっぱに言ってそういうふうに言えると思うのです。」と述べている。博士 はさらに、「・・・日本の教育、少なくとも官学教育の二つの源流が東京と札幌から 発しましたが、札幌から発した所の、人間を造るというリベラルな教育が主流となる ことが出来ず、東京大学に発したところの国家主義、国体論、皇室中心主義、そう言 うものが、日本の教育の支配的な指導理念を形成した。その極、ついに太平洋戦争を ひき起こし、敗戦後、日本の教育を作りなおすという段階に、今なっておるのであり ます。」と続けている。  大学教育をはじめとする教育の自由を国家権力が掌握すると、一歩間違えば国をと んでもない方向に導いてしまう。こうした経験と反省から、戦後の教育には、クラー ク博士がもたらし、内村鑑三や新渡戸稲造によって育てられた札幌農学校の民主主義 的教育の思想が、新渡戸稲造の弟子たちがその制定に多数加わった教育基本法のなか に生かされている。また、日本国憲法の第23条にも学問の自由が唱われている。戦 後、昭和20年から27年にかけて、内村鑑三や新渡戸稲造から強い影響を受けた前 田多門、阿倍能成、田中耕太郎、森戸辰男、天野貞祐らが相次いで我が国の文部大臣 となり教育の大改革にあたっている。明治初期に札幌の地でクラーク博士が蒔いたリ ベラルな民主主義的教育の種は、70年後、太平洋戦争を経て始めて開花したのである 。 このような伝統と、歴史の教訓の中から、北海道大学憲章に相応しい精神を抽出し、 誓文としてまとめたいと思います。今、教育に大きな影響を及ぼす可能性のある大学 の独立行政法人化と、教育基本法の見直しが検討されています。このような時こそ、 大学の本来あるべき姿を見据えて、そこからこれらの問題にどう対処するかを導き、 大学としての確固たる姿勢を示すべきであると思います。我々がよって立つ基をきち んと築く必要があります。 北大憲章に盛り込むべき北大の理念、精神を私のメールアドレスまでおよせ下さい。 Shoichi Fujita, D.V.M., Ph.D. Professor of Toxicology Graduate School of Veterinary Medicine, Hokkaido University Sapporo, Japan Tel: +81-11-706-6948 Fax: +81-11-706-5105 e-mail: fujita@vetmed.hokudai.ac.jp