==> 国立大学独立行政法人化の諸問題
藤田宙靖氏の回答

公開質問状への藤田宙靖氏からの回答

引用等へのリンクを含めたページがあります。
辻下 徹 様

 「お前のしていることは間違いである」と決めつけられてしまいましては、もはや、何をご説明しても無駄であろうかと思われますが、ただ、私が何をしているのかについての、正確なご理解だけは頂きたいと思います。辻下様ははじめから、私が、「国立大学の独立行政法人化」を「提言」し、それに向けて国立大学関係者を「説得」しよう、と努力しているもの、と理解しておられるようですが、先のメールでも申しましたように、これは、私の行っていることについての正しい理解ではありません。国立大学の独立行政法人化の問題に関して私がこれまでに行っている発言は、要約するならば、1.この問題が置かれている政治的状況についての(私が知る限りでの)情報提供、2.「独立行政法人」という制度の内容についての、行政法的な見地からの説明(それに伴い、国立大学が独立行政法人化するということは、行政法的にどのようなことを意味するか、ということについての説明)、3.国立大学の何らかの法人化が現実に避けられないとするならば、この事実に対面して対処する方策としては、どのような途が考えられるかについての分析、に尽きます。私が、これまで、国立大学の独立行政法人化ということそれ自体について、正面から反対意見を述べていないことは、事実ですが、このような「不作為」は、独立行政法人化に向けての「提言」という「作為」とは理論的に同じではないということは、辻下様にもご理解いただけるものと期待しております。

 そもそも先の私のジュリスト誌上の論文について、「国立大学の独立行政法人化につき理論的な正当化を行った」ものであり、ご自身も、説得されて「独立行政法人化も仕方がないか」と思ってしまった、とおっしゃっていることに、私としましては、大きな違和感を抱きます。私があの論文で意図しましたことは、1.国立大学の独立行政法人化という問題が、政治的スケジュールの上で極めて切迫した問題となっていることの指摘、2.(従って、大学関係者としても、この問題についての検討を急がなければならないが)この問題を議論する前提として、そもそも独立行政法人という制度は、どのような法制度であるのかについての(行政法的な見地からの)説明、3.仮に、国立大学を独立行政法人化しようと言うのであれば、法的に、どのような点が問題となるか、についての(私なりの)分析、の三点に尽きるのであって、これらの指摘を踏まえて、大学関係者の間で広く議論が始まること、私の論文が、そのためのきっかけとなることをこそ、期待しておりました。従いまして、あの論文によって、「独立行政法人化も仕方がない」と「説得」されてしまった、というのは、私に取りましては真に意外と申すよりほかはありません。例えば、石井紫郎氏は、「藤田論文に接することによって初めて、この問題について何を検討すべきか、方針が明確に定まった」という趣旨のことを述べておられますが、まさしく、このような読み方こそが、あの論文の正しい読み方なのであり、石井氏のような法律家をはじめとして、私の知る多くの方は、的確にこのような読み方をして下さっています。

 尤も、法律家の議論に慣れておられない(と思われる)方の中には、辻下様と似たような理解をされた方々もおられるようで、今から思えば、恐らくは、より早い時点で、このような誤解を解く努力をすべきであったのかも知れません。ただ、あの論文は、法律専門誌に掲載したもので、まずは法律家の理解を得ることを目的としており、それが結果として、専門外の方も含めてあのように広く読まれるところとなったということ、そして、それが、(今回の辻下様の御指摘に見られるような形で)私から見ればいわば「一人歩き」するようになるとは、当時考えてもおりませんでした。

 再度、ジュリスト論文の内容に戻ります。

 前記1.の指摘の意義については、もはや改めて申すまでもないと思います。当時、一般的に目に見える形ではなかったこの問題が、今や、眼前の問題となって登場していること自体は、誰もが否定できない事実でありましょう。

 なお、このような政治的背景の一つとしての、定員削減の問題ですが、少なくとも当時、考慮すべき問題、クリアーされるべき問題の一つとして、このような問題が理論的に存在したこと自体は、辻下様も否定はされないと思います。ただ言うまでもなくこの問題は、はじめから、あくまでも、問題を検討する際の「一つの」要素であったに過ぎず、私自身、これは「当面の定員削減の対象からは外れる」と言うことであって、独立行政法人化すれば将来にわたって定員削減はないなどという保証はないことを、明言しております。従って、辻下様の先のメールにありましたように、仮に「定員削減問題はもはや脅威ではない」という結論が、広く大学関係者の間で出されたとするならば、それはそれなりに、問題が一つクリアーされた、ということに他なりません。但し、それを脅威と感ずるか否かはともかく、例えば何らかの形での法人化がなされなかったとき、全体として一層大幅の削減があるであろうことを、推進本部では予想している、という事実の存在自体は、ご認識いただきたいと思います。

 尤も、定員削減の問題につきましては、その間の状況が、私が先に理解しておりましたところと若干変わってきているところがあり、以下のように、私がこれまで指摘して参ったことを修正しなければならない点がいくつかございます。

 第一に、10年間で25パーセント削減というのが、定員の単なる「削減」か、それとも「純減」か、で、大きな違いがあることは、いうまでもありません。少なくとも行政改革会議での検討においては、この点については、「純減」であることが、関係者間の一貫した理解となっていた筈と思っておりましたが、政府のその後の見解では、「削減」であるけれども出来るだけ「純減」に近づける、というように、かなり曖昧になってきたようであります。「出来るだけ」ということが現実に何を意味するかによって、状況がかなり変わる可能性があります。

 第二に、現実の削減計画が、独立行政法人への移行プロセスとの関係で、具体的にどのような形で進められるのか、不明の点がありましたが、現時点では、取り敢えず、来年度第一陣として独立行政法人化するものを除いた数を10年間で10パーセント削減する、ということを前提として、平成13年度から具体的な削減を始める、ということのようです。そして、今後独立行政法人に移行する組織については、現実に移行する時点において、はじめてこの削減計画の対象から外す、ということになるようです。従って、国立大学についても、仮に独立行政法人化を決めたとしても、そのことだけでは当然にこの削減計画の対象から外れるというわけではなく、現実に移行する時点(第一陣が平成16年?)までは、移行しないことを前提とした上での削減が進められることになります。その限りで、私がジュリスト論文で指摘した、国立大学が独立行政法人化するかどうかが決まらないと平成13年度からの全体の削減計画の内容が決まらない筈、というのは、そのこと自体としては、正確ではなかったことになります。ただ、文部省は早くから、当時の私と同じ認識を持ち、従って、独立行政法人化した場合の制度設計を急いだこと、また、いずれにせよ、既に今度の通常国会で、今後何を独立行政法人化するのかについての議論が政治的議論の場に上ってくることが、現実に予想される、という事実は、否定できません。

 私のジュリスト論文における前記2.の点に関しましては、改めて多くを申し上げる必要はないのですが、独立行政法人制度とはどういう法制度かを明らかにする過程で、私は、(それ以前の国立大学の独立行政法人化に対する反対論が多く前提としていた)独立行政法人化と民営化との同一視、独立行政法人とイギリスのエージェンシーとの同一視、が、それぞれ、必ずしも正確ではないことを指摘いたしました。このことによって、従来の反対論は、理論的根拠を(その限りで)失うこととなったのは事実です。しかし、これが、独立行政法人化に理論的正当化を行ったということにはならないことは、ご理解いただけると思います。むしろ、本当に問題としなければどこなのか、が明らかになることによって、反対論にとっても、その基盤が確立した筈だからであります。先の石井紫郎氏の指摘は、まさにここのところを的確に踏まえておられます。

 前記3.については、若干の補足を致したいと思います。おそらく、辻下様をも含め、私がジュリスト論文で国立大学の独立行政法人化を「提言」した、とお考えになっている方々は、あの論文が、「仮に国立大学を独立行政法人化するとしたら、どのような点が問題か」と言うことを論じている点を捕まえて、そのような理解をされたのではなかろうか、と思われます。しかし、まず、「仮にAならばBである」という命題が、当然に、「Aである」という命題と同義である、ということにはならないこと、ましてや、「Aであるべきである」という命題と同義とはならないことは、改めて申すまでもないことです。こういった論理関係の明確な整理は、法律家の議論では、特に厳しく要求されますが、このことは何も法律論には限らないことであろうと思います。

 それはともかく、私が何故、あの論文であのような問題を論じたのか、ということについては、次のことをご理解いただきたいと思います。ご承知の通り、当時、独立行政法人通則法が成立することはもはや時間の問題となっており、他方、文部省は、(未だ公にはされておりませんでしたが)遅くも昨年の3月頃には、国立大学の独立行政法人化を行うことを決め、具体的制度設計の検討に入っておりました。しかも、文部省の当初の予定では、通常国会明けの7月頃には、その検討結果が公にされる筈であったのです。このような状況の下で、成立が見込まれる独立行政法人通則法の内容についての法解釈、そして、文部省の制度設計のあり方について、本来あるべき形を示し、それらが間違った方向に向かわないようにリードすることは、行政法学者として、是非とも誰かがやらなければならないことでした。石井紫郎氏は、私の論文のこのような意義についても、高く評価して下さっていますが、私共行政法学者から見れば、これはいずれにせよ誰かがしなければならない作業であったのであり、たまたま、様々な意味において、私がまず手を着けるに最適な立場にあった、というに過ぎません。この作業は、上記の意味において、国立大学が独立行政法人化されようとする際に、そのあり方についてチェックをかける作業であったのであって、これをもって、「独立行政法人化に理論的正当化を与えた」とされることは、私には、全く理解に苦しむところであります。

 次に、九州大学との懇談会の席での私の発言についてですが、あの場面では、状況はやや、ジュリスト論文執筆の時点とは異なっておりました。それは何よりも、その間に国大協からの中間報告が出されていたこと、及び、文部省の方針案が明らかにされていたこと、であります。このような状況の下で、私は、国立大学としてどのような選択肢が考えられるか、ということを検討したのですが、その検討のコンテクストは、先のメールで申し上げたとおりです。辻下様は、あの懇談会で私が、独立行政法人化が「唯一の選択肢」であると強調しているとおっしゃいますが、私は、そのようなことは申してはおりません。私は、いくつかの選択肢を挙げ、それぞれについて、(主として行政法的な側面で)生ずる問題点を論じているのであって、「唯一の選択肢」などは、全く挙げておりません。ただ、「現実問題として何らかの形での法人化は避けられないと思われる」旨述べておりますが、これは否定できない現実についての認識なのであって、そのような現実にも関わらず、(辻下様のように)これに対してとことんまで抵抗し、いわば「玉砕」すべし、という選択肢も、理論的には当然あり得ます。ただ、あの懇談会における私の認識では、それは文字通りの「玉砕」に終わることを覚悟した上でのものでなければならない、ということになります。いずれにせよしかし、「何らかの形での法人化は避けられないと思われる」という事実認識を述べたこと自体が結果的には独立行政法人化を推進するものであって、大きな責任がある、と言われるのであれば、私には、「専ら戦意を高揚する目的での大本営発表」をすることなどはできない、と申し上げる以外にはありません。

 なお、辻下様のお立場からすれば、以下に述べますことは、おそらく「無意味」ないし「関心がない」ことになるのかも知れません。しかし、私にとっては重要なことですので、私の立場をご説明するために、重ねて、この問題についての(私が知る限りでの)政治的ないし行政的現状況について触れさせていただきます。

 先にも触れましたように、文部省は既に早くから、国立大学の独立行政法人化の腹を決めております。この事態は、一昨年末から昨年始めにかけて、太田誠一(前)総務庁長官(行革担当大臣)に、有馬朗人(前)文部大臣が押し切られてしまった時点で、政治的には既成路線となってしまいました。この場合、国立大学側の見解として何らかの政治的意味を持ち得るのは、国立大学協会に集約された見解のみであって、文部省は、それ以外の声、例えば個別大学の意見(ましてや個々の教官の意見)については、耳を傾ける意図は全くありません。従って、国大協がこの問題についてどのような見解を示すかは、大学側にとっては、極めて重要な問題であるのですが、ご承知のように、国大協は、中間報告で、「通則法に定められた独立行政法人制度は、国立大学にはふさわしくない」ということは明言しておりますものの、文部省が示した具体的な制度設計については、何ら見解を表明しておりません。そして、国大協がこのように具体的な見解を示さないのは、99大学の間に甚だしい温度差があり、独立行政法人化に積極的な大学から絶対反対の大学までがあって、この後者の大学からは、文部省案の具体的な検討を始めること自体、独立行政法人化へのコミットであるとして、反対がなされるため、何も具体的に手を着けることができない、という事情のようであります。このような状況の下で、現実に何が進んでいるかと申しますと、先に示された具体案を何とか実現しようとする文部省と、より通則法に忠実な形での独立行政法人化を図ろうとする推進本部事務局との間での、熾烈な折衝なのです(両者の直接の担当者間では、殆ど喧嘩に近いものすらあるようです)。つまり、このままで参りますと、文部省案程度の制度修正すら実現できるかどうかが危ぶまれるわけで、私としては、それを何よりも危惧しております。この意味で、私の現下の関心事は、何よりも、通則法の、大学に少しでも弊害の少ない方向での修正を現実に確保する、ということであり、またそれに向けて努力することこそが、私の責任だと考えているのです。

 辻下様のお立場からすれば、このようないわば「修正主義的な」立場は間違いであって許せない、ということになるのでしょう。その純粋なお気持ちは、分かりますが、しかし他方、「理想主義的な」立場を固持し、他人にもこれを強要するということにもまた、往々にして弊害は伴うという事実を、歴史はこれまた数多く示してきていることを、お考え頂ければ、と思います。「国立大学の独立行政法人化の背景には経済界の利益を貫徹しようという陰謀があるのであって、それを代弁する政府・文部省が専ら大学の自治・学問の自由を抑圧せんがために、全ては仕組まれたことである」という認識は、例えば「ユダヤ資本陰謀説」がそうであるように、一度信じてしまいますと、森羅万象全てがそれで説明できるため、他の見方が出来なくなってしまうおそれがある性格のものだと思います。怖いのは、このような見方から、必要以上に現実を悪い方に歪めて観る結果が生じ易いことで、大変失礼ながら、お送り頂きました「複式簿記」についての御理解は、そのような一例ではないかと思います。恐らく、他の方からも指摘があったのではないかと思いますが、「複式簿記を通して大蔵省の強い干渉法が用意されている」というご認識は、例えば会計における「債務」概念と法律上の「債務」概念とを混同しておられる等、独立行政法人制度についての疑心暗鬼から生じた幻影ではないでしょうか?

 国立大学の独立行政法人化が、大学における研究・教育にどのような結果をもたらすかについては、私自身は、現在の段階では未だ明確な結論は出せないように思っております。この点に関して様々に指摘されていることは、賛否いずれの論にあっても、そのような可能性がある、ということでしかありません。そしてそれは、やむを得ないことなので、そもそも一般に、独立行政法人という制度が今後どのようなものとして機能してゆくことになるか、ということ自体、現段階では未だ明確には言えないのだということは、先のジュリスト論文で、指摘したとおりです。従って、本来、国立大学をどうするかについては、独立行政法人という制度が現実にどのように機能するかということについての、経験を積み重ねた上で、慎重に検討して然るべきことであったと考えております。行政改革会議の最終報告は、まさにこういった考えで書かれていたのです。しかし、現実の政治はそのように動かなかったことは、既に述べたとおりで、そうだとすればその事実に目をつぶっていてはならないので、そういった現実の枠内で、取りうる最良の判断・道筋を見出すべく努めるべきである、というのが、私の立場です。これが最終的に正しい判断となるのかそれとも間違いであったことになるのかについては、今後の事態の展開結果を観る以外にはありません。

 

 以上は、ご質問に対する一般的なお答えですが、以下、「細かい点」とおっしゃる問題について、私の考えを申し述べます。

 (1)中期目標等についての御指摘のような修正が、特例法の特例措置の枠内に入りうるか否か、という点につきましては、行政改革会議における議論に鑑みても、理論的には十分その枠内に入り得る、と私自身は考えております。石井氏の指摘される点についても同様です。ジュリスト論文でも触れておりますように、もともと私は、中期目標・評価システムに対するチェックの根幹は、中期目標の内容自体について実体的な制約をかけることにある、と考えて参りました。ただ、九大との懇談会の時点では、私は、こういった具体的な修正案が、いずれ国大協の最終報告において提示されるものと期待しておりました。しかし、先に触れましたように、国大協にそのような可能性がないことが分かりました現在では、あの時点で、この点をより明確に指摘しておけば良かったか、と若干の反省をいたしてもおります。むしろ問題はこれまた現実にあるのであって、文部省及び推進本部が、このような考え方を認めるかどうかであります。そしてそこには、決して楽観視できないものがあるといわなければなりません。私の立場として、いつどのような形でこういった働きかけをするべきであるか、目下様々に心を悩ませております。

 (2)総務省による評価の問題につきましては、御指摘の通り、九大との懇談会の際には言及し忘れた、と申し上げざるを得ません。その理由は、おそらく、私自身、総務省による評価というシステムは、必ずしも独立行政法人制度自体と理論的に不可分のものではない、という頭があったからだと思います。

 総務省による評価は、基本的に言って、主務省に置かれる評価委員会の評価に対する評価(評価の評価)であり、独立行政法人の活動に対する直接の評価システムではありません。ところで、主務省による監督制度の「三点セット」の存在理由は、理論的には、「主務省(主務大臣)は、当該の行政分野について最終的な行政責任を負っているのであり、従って、この責任を現実に果たし得るための制度が確保されていなければならない」という理屈にあります。これに対して、総務省は、他の省の所管する行政分野について最終的な行政責任を負っているわけではありませんから、もともと、このような評価制度が理論必然的に存在しなければならない、というものではないのです。例えば、先に(1)で触れました、研究教育の内容については主務省の「三点セット」の対象から外す、という修正に対して、推進本部等が抵抗する理屈として考えられるのは、この「主務大臣の最終的行政責任」ということなのですが、仮に主務省についてこの理屈が認められるとしても(私自身は、研究教育に関しては主務省についてもこの理屈は通らないと考えておりますが)、少なくとも総務省については、この理屈は通らないことになります。従って、私自身は、いずれにせよ、総務省が教育研究の内容に関し口を出すことがないようにするための制度的な修正は、理論的に当然許されるものと考えております。現実の問題は、こういった考えを、どのようにして、文部省そして推進本部、更に何よりも国会議員に対して通し得るかです。

 (3)定員削減に関するご質問の一部につきましては、先に既にお答えしました。

 「30%云々」につきましては、私にはご質問の意味が良く理解できません。私が九大との懇談会で申しましたのは、「公務員全体で10パーセントの削減という場合、従来優遇されてきた等の理由もあって、国立大学の場合には、(平均の率である10パーセントに止まらず)現行定員の30パーセントほどにも上るという試算(文部省高等教育局)もある」と言うことでした。或いは、私の説明が明確でなかったのかも知れませんが、そうであったとしたら、お詫びいたします。

 最後に、この返信の公開についてであります。辻下様から度々のメールを頂き、私がこれまで発言してきたことの趣旨が必ずしも正確に理解されていない、ということを強く感じました。「ためにする」議論であるならば、敢えて問題にするつもりはないのですが、辻下様のように問題を真摯かつ誠実に考えておられる方においてそうであるとすれば、これはやはり、私の方にも説明責任があるのか、と思います。従って、私の真意を広くご理解いただくためには、私自身、公開をしていただいた方が好都合であると考えます。

 ただ、仮にその公開を機縁として、多くの方から更に様々のご意見やご質問を頂いたとしても、(恐らくは事情をご理解いただけると思いますが)それらに一々お答えする余裕は、私にはありません。従いまして、公開討論会をしようというご趣旨であるならば、私はそれには応じかねますが、辻下様ご本人との往復につきましては、辻下様のご随意にお任せいたします。

                               藤 田 宙 靖